山科 坂上田村麻呂の墓
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
梅雨の晴れ間に山科を散策しました。地下鉄の梛辻(なぎつじ)駅から新十条通を西に歩きます。
「坂上田村麻呂」(758-811)は平安時代初期の公卿・武官で、左京大夫・坂上苅田麻呂の子として生まれました。(山科川を渡ります。)
793年に遠く陸奥国に出陣して敵対する蝦夷に対する戦争で功績を上げ、桓武天皇から征夷大将軍に任命されました。(新十条通と西野通の交差点)
802年に胆沢城、803年に志波城を築き、朝廷の東北地方の支配地域を広げました。(交差点から一筋西の通りを南に下がります。)
途中に「中臣遺跡ナイフ形石器発見場所」の看板。旧石器時代から平安時代にかけての大規模な集落跡で、名称はこの地に所縁のある中臣(藤原)鎌足にちなんでいます。京都では最も古いとされる後期石器時代のナイフ形石器が発見されました。
坂上田村麻呂は20年間に3回東北地方の蝦夷征伐を行い、征夷大将軍は、東北地方の蝦夷を征伐する遠征軍の総指揮官の名称でした。(新十条通の一筋南の通りに来ました。)
京都でも平城上皇と嵯峨天皇が対立した薬子(くすこ)の乱(810年)などで活躍しました、官職は右近衛大將に昇りました。清水寺を創建したのはこの頃です。「坂上田村麻呂公園」
田村麻呂は赤ら顔のひげづらの怪力の持主で、真の勇者であったと称賛され、後世の武士からも尊崇されてきました。下は幕末から明治にかけての絵師・菊池容斎による伝紀集『前賢故実』から。
朝廷の高官の職員録『公卿補任』には「毘沙門天の化身、来りてわが国を護る…」と記されて生前の評価がうかがわれ、その後様々な伝説が語り継がれていきました。
時代祭の「延暦武官行進列」 延暦時代とは桓武天皇の782年から806年まで期間で、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東征を終え平安京に凱旋する様子を表しています。
北山杉の里・中川には「真弓」という集落があります。その名称は、坂上田村麻呂がこの地の真弓の木で弓を作ったことが由来といもいわれています。
清水寺の「阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の碑」 蝦夷の首長・は平安朝の東北平定政策に対して戦いましたが、郷土の犠牲に心を痛め征夷大将軍・坂上田村麻呂に降伏しました。
田村麻呂は都に連れて帰り、二人に現地を治めさせた方が得策であると提案しました。しかし、平安京の貴族たちは野蛮人として反対、二人は処刑されてしまいました。下は二人が降伏してきた胆沢城跡。
坂上田村麻呂は4代の天皇に仕え、粟田の別業(粟田口の別荘)で亡くなりました。嵯峨天皇は、栗栖野村(この付近)に3町の地を与え、葬儀が行われ墓地が築かれました。
田村麻呂の遺体には甲冑、剣鉾、弓箭がつけられ、平安京に向かって埋葬されたといわれています。墓は「将軍塚」とよばれ、国家の大事がある毎に鳴動して、その前兆を示したといわれます。
また、東国に出征する者はこの墓に詣でて武運長久を祈願したといわれます。しかし、鎌倉時代から室町時代以降は、墓は荒廃してしまいます。明治28年(1895)「平安遷都1100年祭」に伴って墓が整備され、墓碑が築造されました。
清水寺の「田村堂」(重文)の堂内中央には、坂上田村麻呂夫妻像を祀り、併せて清水寺開基・行叡居士と開山・延鎮上人を祀っています。
後に平氏と奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉幕府を開いた源頼朝は、武家の棟梁の官位を望み、朝廷は坂上田村麻呂の例をもとに征夷大将軍に任命しました。
以降675年間にわたり、鎌倉、室町、江戸幕府(織田・豊臣政権を除き)が続き、征夷大将軍は幕府の最高権力者の名称となりました。慶応3年(1867)の明治新政府による王政復古の大号令で征夷大将軍職は廃止されました。
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コメント
坂上田村麻呂は、有名ですが
あまりにも昔過ぎて、ピンと来ないような気がします。
大河ドラマとか、もう少し坂上田村麻呂を
クローズアップして欲しいものです。
投稿: munixyu | 2020年6月26日 (金) 16:32