« 金閣寺 北部の史跡をめぐる | トップページ | 龍安寺 鏡容池と塔頭たち »

2020年6月24日 (水)

龍安寺 石庭と苔庭

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jod_3095a
※写真は全てクリックで拡大します。

金閣寺を出て龍安寺を訪れました。。「龍安寺」は山号を大雲山という臨済宗妙心寺派の寺院で、上の「総門」はきぬかけの路を挟んだ南にあります。

バス停の正面には「名勝龍安寺石庭」という石標があり、最初に石庭を拝観します。

Jod_2724a

「山門」は江戸時代末期の1680年に建設された切妻造りです。左に拝観受付があり、山門をくぐるとしばらく鏡容池の東を通ります。拝観券は後で必要になります。

Jod_2733a

参道の両側には「龍安寺垣」があります。透かしの部分にひし形に組まれた割竹が張られ、上部を大きめの割竹で押さえた背の低い垣です。現在では日本庭園や家屋に広く用いられています。

Jod_2749a

この地域一帯は、平安時代中期の永観元年(984)に建立された円融天皇の御願寺・円融寺の境内地でした。

Jod_2758a

円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能(さねよし)が同地に山荘を建立しました。(途中に何かの石材を利用した手水鉢があります。)

Jod_2760a

後に、この山荘を細川勝元が譲り受け龍安寺とし、初代住職として妙心寺8世住持・義天玄承(玄詔)を迎えました。(石段を上ったところに庫裏があります。)

Jod_2771a

義天玄承は尊敬する師の日峰宗舜を開山に勧請し(勧請開山)、自らは創建開山となりました。創建当初の龍安寺は現在よりはるかに広かったといわれています。(庫裏は石庭の拝観入口になっていて、拝観券が必要です。)

Jod_2785a

細川勝元らと守護大名山名宗全らが争った応仁の乱(1467-1477)で龍安寺は焼失、勝元の子・細川政元と4世住持・特芳禅傑によって、明応8年(1499)再興されました。(屏風は、儒学者の寺西乾山の筆で陶淵明の「飲酒」という漢詩だそうです。)

Jod_2789a

石庭は室町時代末期(1500年頃)の特芳禅傑などの優れた禅僧によって作庭されたと伝わっています。いつもと変わらず、縁先に参拝客が並んでいます。

Jod_2844a

石庭は東西25m、南北10mの空間に白砂を敷き詰めて15個の石を配しています。庭面は排水のため、東南隅(左前)が最も低く造られています。一方、塀の高さは、西南(右奥)が最も低く、遠近法によって庭が広く見えるように工夫されています。

Jod_2797a

どの場所からでも、15個の石の全部が見えることがないといわれています。5か所にかたまって配置され、上の写真の手前に5個、下の写真の左に2個、右に3個かたまっています。

Jod_2824a

こちらには左から3、2、3個の石があります。結局、左から5、2、3、2、3個ずつかたまっているのをまとめて、7,5,3の縁起の良い奇数(陽の数)の配置の「七五三の庭」とよばれることがあります。

Jod_2806a

石庭は「虎の子渡しの庭」とも呼ばれ、母虎が、3頭のうち1頭が獰猛な子虎を大河の向こう岸に渡す中国の説話が由来です。しかし、当初の作庭意図は不明で、もともと特定の意味はなかったともいわれています。

Jod_2814_23a

「方丈」(重文)は本堂で、江戸時代初期の1606年に建立、寛政年間(1789-1803)に妙心寺塔頭・西源院本堂を移築、再建されました。室中には本尊・弥勒菩薩を安置しています。

Jod_2852a

正面の襖絵は、皐月靏翁の臥龍梅(がりゅうばい)。皐月靏翁は、明治から昭和に京都で活躍した南画家で、富岡鉄斎に師事し山水画や赤富士など多くの作品を描いています。

Jod_2847a

西庭は「ぴろうど苔」といわれる龍安寺特有の苔で覆われた美しい苔庭です。安土桃山時代、豊臣秀吉は蒲生氏郷と前田利家を連れ龍安寺を訪れ、方丈の西庭の糸桜の花見をし和歌の会を催しました。

Jod_2861a

秀吉は以後3度にわたり寺領を寄進しました。上の写真の左奥に秀吉が愛でたという糸桜の古株が残っています。渡り廊下が仏殿と開山堂の昭堂につながっていますが非公開です。

Jod_2868a

北庭は山の斜面が迫っていて、石敷きの溝の手前だけが苔地になっています。この溝は「犬走り」と呼ばれ、方丈の四方の軒下に造られ、雨水が落ちて土を浸食するのを防ぎ、庭と建物を守る役目をしています。

Jod_2874a

江戸時代の初め、板倉勝重、金地院崇伝によって朱印722石が寄進されました。北庭の東には水戸光圀が寄進した「吾唯足知」と刻まれた手水鉢(蹲踞)が置かれています。

Jod_2888a

江戸時代の最盛期には塔頭が23院あったといわれています。しかし、明治初年の神仏分離令後の廃仏毀釈により塔頭は3院だけになり、上知令によって寺領の大部分は接収されました。

Km_03_04_019g01

財政難のため障壁画などの寺宝も売却せざるを得なくなり、当初の方丈襖絵も全て散逸してしまいました。東庭には苔地に木が植えられています。手前の一番右は豊臣秀吉が賞賛したという侘助(わびすけ)椿。

Jod_2901a

1924年に石庭が国の史跡・名勝、1954年には特別名勝に指定され、1994年には「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されました。当初の方丈襖絵のうち6面は買い戻したそうです(他に21面が欧米で所在が確認されています)。

Jod_2909a

現在のように石庭が人気となったのは、欧米諸国における禅ブームと1975年にエリザベス2世が龍安寺を公式訪問した際に石庭を称賛したのがきっかけといわれています。

Jod_2931a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jod_2768a

|

« 金閣寺 北部の史跡をめぐる | トップページ | 龍安寺 鏡容池と塔頭たち »

コメント

石庭に苔庭に。
二つの違う静けさがあっていいですよね。
夏は石庭の方が、より静かなのかもしれませんね。
拝観者も少しずつ、増えてきて来ましたか。
少しずつ、賑わいを取り戻せるといいですね。

投稿: munixyu | 2020年6月24日 (水) 15:44

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 金閣寺 北部の史跡をめぐる | トップページ | 龍安寺 鏡容池と塔頭たち »