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2020年5月15日 (金)

京都仙洞御所の藤と秀吉の新城

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

「仙洞御所」は後水尾上皇の御所として寛永7年(1630)に完成しましたが、御殿は嘉永7年(1854)に焼失したのを最後に再建されていません。以下の写真は過去のもので、下は「松竹梅の庭」。真っ赤な霧島つつじが目を引きます。

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東京遷都後初めて退位した天皇(上皇)の御所(仙洞御所)が誕生するため、「京都仙洞御所」と改称されました。御庭口をくぐると「北池」があり、東山を借景としています。このあたりはかっての女院御所の庭でした。

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この庭園では、舟遊びをして、詩歌を詠じ、芸能、宴を楽んだといわれています。まずこの池の周囲の苑路を右回りします。池の畔に可愛い花

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向うに「紅葉橋」が見えます。北池と南池をつなぐ掘割にかかる土橋で、紅葉が盛んなときには美しいところです。霧島ツツジが鮮やかな赤でした。

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紅葉橋から南池に架かる「八ッ橋」、藤棚で覆われています。

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ちょうど見頃でした。

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八ッ橋を渡ります。

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平等院ほど長い房でははないけれど、花がたっぷり付いています。

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向うの森は「鷺の森」というそうですが、「雄滝」の横にアオサギが1羽。

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南湖の周囲を巡ります。

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こちらの池の畔にもカキツバタが咲いています。

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藤棚の入口は「下り藤」が咲き、出口の辺りは「上り藤」が咲いています。

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房の向こうにのんびり羽根を休める・・・

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アオサギ3羽、仙洞御所がテリトリーとは贅沢。

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八ツ橋の上から先ほど通った紅葉橋が見え、その左の小山は「紅葉山」です。

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池の南には柿葺(こけらぶき)の茶亭「醒花亭(せいかてい)」があり、火災を免れた茶室の一つです。

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池の東は洲浜になっています。

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ところで、今年の5月12日に京都市埋蔵文化財研究所から、豊臣秀吉が最晩年に築城したとされる「京都新城」の遺構が初めて見つかったと発表がありました。下図には平安京の街区(坊城)も描かれています。

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京都仙洞御所の消火設備設置のための事前発掘で、見学ルートからは見えない場所です。秀吉は1595年、おいの秀次を謀反の疑いで追放し、京都御所の西側にあり、秀次に譲った邸宅「聚楽第」を取り壊しました。(調査区域の測量図)

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1597年、現在の京都御所に接する形で京都新城を造営、息子の秀頼を伴って新城に入り、秀頼は御所で元服しました。約32万㎡(東西約400m、南北約800m)の敷地を有したとされます。(発掘現場の全景)

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翌年に秀吉が伏見城で亡くなると、秀頼は遺言に従い大坂城に移り、新城には秀吉の正室・北政所が住んだとされます。下は発見された石垣の遺構。

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しかし、1600年に関ヶ原の戦いが起きる直前に新城の石垣や門などが壊され、1627年には跡地に譲位後の後水尾天皇が住む仙洞御所が造営されました。 石垣のオルソ(真横から見たように修正した)写真。

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公家の山科家の日記「言経卿記(ときつねきょうき)」には「太閤御屋敷」と書かれているなど、新城の存在は知られていましたが、実際の遺構は見つかっていませんでした。(宝永大火前の仙洞御所)

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記録にあるように、石垣や桐や菊文様のある金箔瓦が見つかりました。御所のそばという場所を意識して、石垣は美しい石を選んで丁寧に造られていたそうです。下は、京都新城、仙洞御所、聚楽第の規模の比較。

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ぐるっと南池を廻って来ました。この下に秀吉の新城跡が眠っていると考えると、今までとは違った景色に感じられます。

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コメント

晩年期の秀吉は、不明な点といいましょうか、
謎の行動が多いですが、
ここに京都新城があったという事実は、
重要な資料となりますよね。

投稿: munixyu | 2020年5月15日 (金) 16:15

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