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2020年5月12日 (火)

新緑の圓光寺と六条道場

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

「圓光寺」は山号を瑞厳山という臨済宗南禅寺派の禅寺です。紅葉だけでなく、季節の花や新緑も美しい寺です。以下は過去の写真で、最後に、街を歩いていて「気になったもの」を紹介します。

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慶長6年(1601)に徳川家康が文治政策として臨済宗の僧・三要元佶(さんようげんきつ)を招いて伏見に学問所を開いたのが始まりです。(山門を入ると道の両側に牡丹が咲いていました。)

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一段高くなっている境内地に入ると、枯山水の「奔龍庭(ほんりゅうてい)」が目に入ってきます。

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白砂は雲海、左の石組は天空を飛び回る龍を表します。背後の切り立った石柱は龍の周囲に光る稲妻だそうです。

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後に圓光寺は相国寺の境内に移りましたが、元和年間に焼失し細川忠利が再建、寛文7年(1667)幕命によって現在地に移されました。

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寺の創建時、家康は多数の書籍や木活字十万を寄贈して元佶に管理させました。これにより、貞観政要や武経七書をはじめ、圓光寺版と呼ばれる図書が印刷・出版されました。(庫裡の入口や庭にシャクナゲが咲いています。)

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三要元佶は閑室(かんしつ)元佶とも呼ばれ、江戸幕府が開かれると以心崇伝らとともに家康のブレーンとして寺社奉行などの任にあたりました。(玄関には渡辺章雄の「琳派彩還 四季草花図」。)

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圓光寺は、明治維新後の廃仏毀釈で荒廃して無住の寺となってしまいました。明治39年(1906)尼僧の南嶺尼(なんれいに)が廃寺寸前の寺を整備して12代住持となり、以後は南禅寺唯一の尼衆専門道場となりました。(方丈に向かいます。)

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方丈から「十牛之庭」 牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にした、近世初期に造られた池泉回遊式庭園です。

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十牛図は、仏道入門から悟りに至る十の道程を牛と牧童で表しています。牧童が懸命に探し求めていた悟りは牛(人間が生まれながらに持っている仏心)、すなわち、自らのなかにあったという物語だそうです。

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庭の東(左)に巨石の「臥牛石」が置かれ、そこから大小十の伏せ石が牛にたとえられて配置されています。

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尼寺としての長い歴史の間、修行僧たちもこの庭園を眺めて、心の安らぎを得て励まされたのでしょう。

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現在は尼寺ではないそうですが、南禅寺の研修道場として歴史が引き継がれています。(こちらは内庭、手前に南禅寺の瓦が置いてあります。)

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庭園に下ります。

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「瑞雲閣」 最初に見た奔龍庭の奥に入口があります。応挙の竹林図屏風や出版に使用された木活字なとの重要文化財が展示してあります。

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庭の南にある瓢箪形の「栖龍池(せいりゅうち)」とその周囲の「昇龍の庭」は、洛北で最も古いものだそうです。

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拝観順路に沿って坂道を上って行くと、途中に「鐘楼」があります。

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鐘楼の奥(十牛之庭の東)に修行中の童、方丈からは見えませんが、十牛図の一つかも知れません。

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ところで、今日の「気になったもの」は佛願寺の門前にある「六条道場」の石碑です。「佛願寺」は渉成園の北隣にある真宗大谷派の寺院ですが、六条道場とは関係がないようです。

鎌倉時代の1291年時宗開祖・一遍上人の弟子・聖戒(しょうかい)が石清水八幡宮南に善導寺を建立。1299年聖戒に帰依した関白・九条忠教により、善導寺は源融が造営した六条河原院の跡地に移されました。(左の塀は渉成園。)

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移転の際に、菅原道真の父・是善の旧邸に鎮座していた天満宮とその神宮寺・歓喜光寺を合併、改めて歓喜光寺を建立、聖戒が開山(第1世)となりました。

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歓喜光寺は「六条道場」と呼ばれ、時宗六条派の拠点(本山)になり寺領60個所を有し、踊念仏、別時念仏、連歌会なども催され、将軍家から庶民まで幅広い信仰を集めたといいます。

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室町時代、歓喜光寺は将軍により寺領が安堵されましたが何度も火災にあい、応仁の乱の後高辻烏丸に移転、安土桃山時代には豊臣秀吉により京極錦小路に移されました。

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明治初めに分離された鎮守社・錦天神社は後に錦天満宮となります。歓喜光寺は明治40年(1907)東山五条に、昭和50年(1975)山科に移転、現在に至ります。(圓光寺に戻り斜面を上ります。)

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右手に墓地があり、井伊直弼の女スパイといわれた祇園の芸妓「村山たか女」や被爆して京都で亡くなったマレーシア王族の留学生「サイド・オマール」の墓があります。

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右は再興された「東照宮」で東照大権現(徳川家康)が祀られています。江戸時代の「遺拾都名所図會」にはここに白木造りの荘厳な名跡があり、「雨月物語」の作者上田秋成もお参りしたといわれます。

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見晴らし台の真下に圓光寺の建物と庭が見えます。

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ここからは、市内の中央から北部にかけて見渡せます。南西の方向に仁和寺の五重塔が見つかりました(枠の中)。

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北西の方向には五山送り火の「船形」が見えます。

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帰りは竹林の道を通ります。順路に松茸が生えていました。長くはないのですが、両側に石仏や石塔が並び雰囲気がある道です。

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栖龍池の南を通ります。

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コメント

六条道場は、道場ではなくて
歓喜光寺と言う寺のことなのですね。
日本史の引っ掛け問題に出てきそうな気がします。
でも、こういうの、面白いですよね。

投稿: munixyu | 2020年5月12日 (火) 15:20

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