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2020年5月16日 (土)

新緑の南禅院と小沢蘆庵

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

京都府は新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言が解除されませんでした。しかし、独自の判断基準を定めて、今日から外出自粛要請の内容が変わり、休業要請が一部解除されました。

水路閣の向こうにある「南禅院」は南禅寺発祥の地とよばれ、塔頭ではなく南禅寺の別院です。石段を上ると「勅使門」があり、その左に「史跡及名勝 南禅院庭園」の石標があります。(南禅院の写真は過去のもので、最後に「気になったもの」があります・)

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鎌倉時代の文永元年(1264)、亀山天皇は父・御嵯峨上皇が造営した離宮・禅林寺殿を伝領しました。10歳で即位して15歳となったときです。(拝観入り口を入ると左に「方丈」があります。)

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その後、禅林寺殿の一部が焼失し、その跡地に「上の御所」(松下殿)を建て、住居としました。焼失を免れた部分は「下の御所」と呼ばれるようになります。(方丈は開け放たれています。)

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亀山天皇は文永11年(1274)に25歳で子の後宇多天皇に譲位して院政をしきました。この頃、東アジアの情勢は緊迫しており、2度の蒙古来襲(1274年、1281年)という国難に遭遇しました。(方丈の西庭)

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やがて国難が去った後、亀山上皇と鎌倉幕府の関係が悪化、弘安10年(1287)には後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位しました。その父である後深草上皇の院政が開始されて、亀山上皇は総領権を奪われてしまいました。

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方丈の南の庭園は当時のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で、周囲を深い樹林で包まれています。作庭は亀山上皇ともいわれ、早くから、京都の3名勝史跡庭園の一つに指定されています。

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まもなく離宮で奇怪な事件が起きました。『文応皇帝外紀』によると、離宮で妖怪が現れたといいます。かってこの地にあった最勝光院に住んでいた道智上人の霊(物の怪)が夜な夜な出没したのです。(方丈を通して最初に通った北側)

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上皇は、各宗派に妖怪の退治を命じ、西大寺の叡尊が呼ばれましたが祈祷の効果はありませんでした。

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東福寺の無関普門禅師が呼ばれ、20人の比丘とともに離宮で座禅を続けたところ、異変はなくなりました。(茶室「龍淵窟」 昭和の数寄屋大工・岡田永斎作の書院風茶席で、庫裏、方丈と廊下でつながっています。)

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上皇は感心して無関禅師を師と仰ぎ、出家して法皇となりました。さらに、無関禅師に離宮を寄進して開山として迎え、南禅寺(禅林禅寺)を開きました。正応2年(1289)のことです。

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しかしながら、無関禅師はその年に亡くなり、法皇の命により規庵祖円禅師(南院国師) が31歳の若さで第2世の住持となりました。当時離宮には禅寺として機能するものは一つもなく、規庵禅師は伽藍の建立・整備に半生を捧げ、創建開山と呼ばれました。

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伽藍がほぼ完成した嘉元3年(1305)亀山法皇は嵯峨の亀山殿で57歳で亡くなりました。御陵は亀山殿の跡地に建立された天龍寺境内にありますが、遺言によりこの地に分骨埋葬されました。それがこの亀山天皇分骨所で、宮内庁の管轄地です。

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「龍門瀑」 滝の水は琵琶湖疏水ですが石組は鎌倉時代の形式といわれています。

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上池は「曹源池」と呼ばれ、中央に竜の形に作られ蓬莱島があります。

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下池には小島を「心」の字に配した心字島が造られ、池ではなく島で字を造るのは珍しいそうです。離宮が南禅寺となってからも、亀山法皇の持仏堂だった南禅院はこの地で引き継がれてきました。

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ところで、今日の「気になったもの」は平安神宮の北にある「小沢蘆庵邸宅跡」の石碑です。小沢蘆庵(1723-1801)は、竹腰家家臣・小沢喜八郎実郡の末子として大阪に生まれました。

10代の頃、尾張藩京都留守居番本荘家の養子となりますが、後に小沢家に戻りました。右の「蒲生君平仮寓跡」の石碑は明日の記事て。

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30歳の頃、冷泉為村に入門して和歌を学び、伴蒿蹊、澄月、慈延とともに冷泉門下の平安四天王と呼ばれるようになりました。34歳のとき公家の鷹司家の家人になりました。以下の写真は烏丸今出川北東にある冷泉家邸宅。

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しかし、43歳のとき出仕を差し止められ無職となり、以後は貧困の中で和歌に専念しました。次第に為村の堂上和歌への反発を強め、直接の原因は不明ながら為村に破門されました。 51歳、安永2年(1773)のことです。

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天明の大火(1788)により洛中の自宅を焼失し、以後寛政3年(1791)まで太秦の十輪院に幽居しました。十輪院は広隆寺(下)の塔頭でしたが、廃絶しています。「太秦の深き林をひびきくる風の音とすごき秋の夕暮」

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寛政4年(1792)には洛東岡崎に移り、本居宣長、上田秋成、香川景樹らと交流しました。享和元年7月に没し、享年79歳。石碑がある場所が蘆庵最期の住居跡です。

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北白川の心性寺に葬られました。高台にあり景色がよい寺で、蘆庵は足しげく通い歌を詠んだといわれます。先日北白川の記事で紹介した墓のありかを示す道標。

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心性寺も今はなく、墓は日本バプテスト病院の敷地内に残されています。「松風の読経の声に聞こえしはつくつく法師鳴けばなりけり」

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日常の平語を用いて自然な感情や心をあるがままに表現する「ただこと歌」を説き、歌論『布留の中道』を著しました。 歌論には他に『ふりわけ髪』、家集には自撰家集『六帖詠草』、『六帖詠草拾遺』があります。

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新日吉神宮 (いまひえじんぐう)の宮司宅には、小沢蘆庵を始め江戸後期の多くの文学者の稿本など近世文学の資料を「蘆庵文庫」の名で収蔵しています。  

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蘆庵の歌論・歌風は香川景樹や大田垣蓮月ほか多くの歌人に強い影響を与えました。当時の人々には現在の俵万智のように新鮮だったと思われます。香川景樹の墓がある東山仁王門の聞名寺。

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「きのふまで花にいとひし心さへ青葉にかはる風のいろかな」、「我が庵に近き吉田のかぐら岡のぼりてぞ見る星合の空」、「ことの葉は人の心の声なれば思ひをのぶるほかなかりけり 」

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池を一周して、最後は秋の南禅院。

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コメント

道智上人の霊(物の怪)が出たり、
妖怪退治を命じたり、
たまにこういう不思議な話が出てきますよね。
酔っていたりして、何かと間違って見えるのでしょうか。
妖怪には、いて欲しいような、いて欲しくないようなですよね。

投稿: munixyu | 2020年5月16日 (土) 14:45

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