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2020年5月19日 (火)

松ヶ崎大黒天と明治天皇行幸地

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今の季節の松ヶ崎大黒天で、空が綺麗に晴れ渡った日でした(過去の写真)。最後に街を歩いていて「気になったもの」を紹介します。北山通から一筋北の通りに一の鳥居があります。この通りは上賀茂神社の前から川端通まで続いています。

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「松ヶ崎大黒天」は通称で、正式名称を松崎山妙円寺という日蓮宗の寺です。

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鎌倉時代の永仁2年(1294)日蓮聖人の法孫、日像上人によって法華経が広められ、徳治元年(1306)には松ヶ崎全村が日蓮宗に改宗し、「松ヶ崎法華」とまでいわれるようになりました。

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関ヶ原の合戦の後、江戸初期の元和2年(1616)本覚院日英上人が本涌寺(現在の涌泉寺)内に隠居所を建立したのが妙円寺の始まりです。涌泉寺(泉涌寺ではありません)は「妙」の字の麓にある寺です。

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承応3年(1654)教蔵院日生上人によって「松ヶ崎檀林」(僧侶の学校)がこの近くに創立されました。東門

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「大黒堂」に祀られている大黒天像は、伝教大師・最澄の作で、日蓮聖人が開眼したとされます。日英上人が妙円寺を創建した際、法華経の守護神としてこの大黒天を別棟に祀りました。

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この大黒天は、京都の子丑の方角(表鬼門)に位置して鬼門を守護しています。寿福円満、開運招福、商売繁盛の神として信仰され、都七福神めぐりの大黒様としても知られています。

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昭和44年に失火で堂宇が焼失。しかし、大黒天は水火を免れて無事だったので、「火中出現 火伏守護の大黒さま」としても崇拝されています。下の「なで大黒」は体の悪いところをなでると、快癒すると信じられています。

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大黒堂の前にある「絵馬堂」

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こちらが「本堂」、「妙圓精舎」の扁額がかかっています。本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏(くおんじつじょうのほんししゃかむにぶつ)で、大曼荼羅の本尊です。

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「五山の送り火」の「妙法」は妙円寺の裏山の松ヶ崎山にあります。(本堂の前、緑が綺麗でした。)

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これは、松ヶ崎の村が日蓮宗に改宗したとき、日像上人が杖で松ヶ崎西山に「妙」の字を描き、後に下鴨大明寺(廃寺)の日良上人が松ヶ崎東山に「法」の字を描いたものだそうです。(西門やお茶席、庫裡などがあります。)

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送り火の「妙法」は、お盆の精霊送りの聖火の一つですが、松ヶ崎の信仰の歴史を伝える火でもあります。(振り返って東の方)

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この日は空気も澄んでいて「法」の火床からの見晴らしを期待していたのですが、数年前から松ヶ崎山全山が入山禁止になっていました(送り火の後で1日だけ登れるそうです)。

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今日の「気になったもの」は、京都のあちこちで見かける「明治天皇行幸地」の石碑です。東京遷都で衰退した京都の産業振興を気にかけ、番組小学校など進んだ教育施設の視察も目的だったようです。

明治10(1877)年に明治天皇の関西行幸があり、西南戦争が勃発したため京都には長期の滞在となりました(1月28日~2月6日、2月16日~7月28日)。5月12日に下京第十四番組小学校(修徳小学校)に行幸、下はその石碑と番組小学校の記念碑。

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「明治天皇行幸所勧業場阯」 勧業場とは、東京遷都後の産業振興のため明治4年(1871)府が長州藩邸跡に設置した産業振興の中枢機関です。関西行幸の際に勧業場も視察しました。京都ホテルオークラの南にあります。

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「明治天皇行幸所織工場跡」 京都府が産業振興のために開設した織物技術伝習所の跡地で、現在は日本銀行京都支店。明治10年、勧業館とともにこの伝習所を視察しました。

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「明治天皇行幸所牧畜場阯」 明治初めに知事となった槙村正直は、荒神橋東詰に京都牧畜場を設置しました。東京遷都で沈滞した京都の復興のための産業振興の一環でした。石碑は京都大学稲盛財団記念館の敷地内にあります。

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父・孝明天皇(1831~66)の二十年祭のため、明治天皇は明治20(1887)年の1月26日~2月21日まで京都に滞在し,1月29日京都府庁に行幸しました。

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「明治天皇妙法院行在所」 慶応4(1868)年明治天皇は、天智天皇・孝明天皇陵を参拝後、東山七条の妙法院で休憩しました。明治13(1880)年孝明天皇陵に参拝のおりにも妙法院で昼食のため休憩しました。

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「明治天皇御小休所安楽寿院」 明治5年(1872)5月明治天皇は巡幸に出発、伊勢・大阪を経て入京、6月4日再度大阪に向かう途中、伏見区竹田にある安楽寿院で休憩しました。

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「明治天皇御小休所枳殻邸」 明治元年(1868)3月大阪行幸の途上および還幸時に枳殻邸(渉成園)で休憩しました。これを最初として明治天皇は計4回にわたって枳殻邸に立ち寄りました。

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ところで、明治天皇は先の関西行幸で京都に長期滞在のおりに、遷都後10年も経たずして御所や公家町が荒廃していることを嘆き、滞在中に御沙汰(天皇の命令)を発しました。

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御所を保存しながく旧観を失わぬために明治10年~21年まで毎年4,000円を給し、接近した地所を買収、火災延焼のおそれのないように整備し、その事務を京都府に委任するというものでした。

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現在の京都御苑は、明治天皇の関西行幸が契機となり整備されたものです。松ヶ崎大黒天に戻り、大黒堂の横の子安観音石像。

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東門は「額縁門」にもなっています(TOP)。ちょうど大文字山が正面に見え、その下の芝生は北白川ゴルフクラブ(練習場)です。

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コメント

明治天皇行幸地の石碑は、
僕の出身の守口市にもありました。
来ただけで石碑が建つって、凄いことですよね。

投稿: munixyu | 2020年5月19日 (火) 16:56

★munixyuさん こんばんは♪
多くの石碑は昭和初期に建てられたようです。この時代、天皇を敬う機運があったのでしょうね。

投稿: りせ | 2020年5月24日 (日) 23:57

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