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2020年5月28日 (木)

大徳寺塔頭と戦国武将たち

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

大徳寺山内には多くの塔頭があります。そのうち、戦国武将にゆかりのある塔頭を紹介します。「大徳寺は」鎌倉時代末期に開創された臨済宗大徳寺派の大本山ですが、応仁の乱以降荒廃しました。

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織田信長や豊臣秀吉が領地を寄進して菩提寺を創建してから、多くの戦国武将も塔頭を創建・再建しました。境内の東にある総門(上)を入り、左の道を南に行くといくつかの塔頭があります。

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「黄梅院」 永禄5年(1562)に織田信長が父・信秀の追善供養のために庵を建て、「黄梅庵」と名付けました。

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後の天正14年(1586)、豊臣秀吉や小早川隆景によって本堂、庫裏、唐門など諸堂の改築が行われ、名を「黄梅院」と改めて大徳寺の塔頭となりました。この「表門」も1589年に小早川隆景が寄進したものです。

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門を入って右の石碑 墓所・霊所がある諸侯の名があり、織田信秀と小早川隆景以外に、毛利元就と蒲生氏卿の名もあります。蒲生氏卿(がもう うじさと)は柴田勝家の家臣でしたが、本能寺の変の知らせを受けると安土城の信長の一族を保護しました。

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総門からの道に戻り、西の突き当りから左(南)にも塔頭が並んでいます。

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「興臨院」は、足利時代の大永年間(1521- 1528)に、能登国の大名・畠山義総が大徳寺86世の小渓紹怤(しょうけいじょうふ、仏智大通禅師)を開山として迎えて建立しました。以来畠山家の菩提寺となります。

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畠山家が没落した後。天正14年(1586)に加賀百万石の基礎を築いた前田利家によって本堂屋根の改修が行われ、以後前田家の菩提寺となりました。

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「瑞峯院」は、室町時代の天文4年(1535)キリシタン大名として知られる大友宗麟が、大徳寺第91世・徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)禅師を開祖として、菩提寺を創建したのが始まりです。下の表門(重文)は創建当初のものです。

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大友宗麟は南蛮貿易により経済力を高め、その間キリスト教への関心を強め、自ら洗礼を受けました。最盛期には九州六ヶ国を平定しましたが、島津義久に敗れて、晩年には秀吉傘下の一大名として豊後一国までに衰退しました。(十字架の庭)

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興臨院の前から北への道沿いにある「正受院」、天文年間(1532-1555)伊勢亀山城主・関盛衡や越前敦賀城主・蜂屋頼隆が檀越となり、大徳寺93世清庵宗胃を開祖として建立されました。

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本能寺の変の直前に明智光秀が催した「愛宕百韻」に参加した連歌師・里村紹巴の墓があります。

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「三玄院」は、天正17年(1589)に浅野幸長(よしなが)、石田三成、森忠正らが創建しました。浅野幸長は、浅野長政の子、森忠正は、本能寺の変で亡くなった森蘭丸の弟です。石田三成は、豊臣秀吉に仕えた武将で、関ヶ原の戦いで西軍を率いたことで知られていますね。

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石田三成は関ヶ原の合戦で敗れ、ここに埋葬されました。しかし、徳川幕府は三成の墓を許さず、明治時代末に関西の実業家朝吹英二氏が墓を建て陽の当たる場所に改葬したという記録があります。

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三玄院の前の道の突き当りに「臨済宗大徳寺派 宗務本所」があります。本坊や方丈などの拝観の入口にもなっています。

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宗務本部の横の道を北に行くと、大仙院の石標が見えます。山門は右に入ったところにあります。大仙院は通年公開している大徳寺の3塔頭の一つですが、内部は庭も含めて撮影禁止です。

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大仙院は、永正6年(1509)に六角政頼がその子で大徳寺76世の古岳宗亘(こかくそうこう)を開祖として創建しました。大徳寺の塔頭の中で最も古く、大徳寺の四法脈のうちの北派の本庵で、南派の龍源院ととともに大徳寺を隆盛に導きました。

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大仙院から石標まで戻り、南北の道の突き当りに「芳春院」があります。慶長13年(1608)、加賀の前田利家の夫人・芳春院が、玉室宗珀を開祖として建立、前田家の菩提寺となりました。

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本堂背後には、飽雲池を前にした二重の樓閣 呑湖閣(どんこかく)があり、金閣、銀閣と同様、樓閣山水庭園として名高い。呑湖閣は、元和3年(1617)に前田利家の子利長が、小堀遠州に依頼して建てたものと伝えられています。

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墓地には、芳春院の霊屋、かの東寺百合文書の整理を行った前田綱紀の霊屋をはじめ、前田家代々の墓があります。紅葉の頃に特別公開があります。

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宗務本部の前まで戻り、西に行く道の途中に「総見院」があります。総見院は春の特別公開が行われていましたが、昨日が最後の日でした。

 

 

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「総見院」は、織田信長の一周忌を迎える天正11年(1583)、豊臣秀吉によって大徳寺117世の古渓宗陳を開祖として創建されました。寺名は、信長の戒名からとったものです。

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本堂には天正11年作の織田信長木像(重文)も祀られています。荼毘に付された木像と同じく康清の作です。信長の葬儀以降、大徳寺には戦国大名の寄進が相次いだといわれています。

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総見院の前の東西の通りから、左の南北の通り沿いに「高桐院」があります。

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「高桐院は」、安土桃山時代の慶長7年(1602)細川忠興(三斎)が、叔父の玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)を開山として、父・幽斎の菩提所を建立したのが始まりといわれています。

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細川忠興は、織田、豊臣、徳川の三時代に一貫した精神で身を処した戦国時代きっての智将といわれています。正室のガラシャ(玉子)の父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときは光秀への協力を断り、ガラシャを離縁せずに幽閉して累の及ぶのを避けました。

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関ヶ原の戦いの直前に西軍が屋敷を襲撃したとき、ガラシャは人質となることを拒否して自ら命を絶ってしまいました。この死が東軍を鼓舞してその勝因の一つといわれています。

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ガラシャの死後遺骨は堺のキリシタン墓地に埋められ、後に忠興が大坂の崇禅寺へ改葬し、さらに高桐院に分骨しました。上の写真の中門の向こうに細川家歴代の墓があります。

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コメント

菩提寺。
こういう大きな建物を作ることによって、
戦国大名たちは、自分の力を誇示していたのでしょうね。

投稿: munixyu | 2020年5月28日 (木) 17:10

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