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2020年5月21日 (木)

西山光明寺と北緯35°物語

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は西山にある光明寺です(過去の写真)。上は総門で、江戸時代後期の天保16年(1845)に建てられた高麗門です。

「光明寺」は山号を報国山、院号を念仏三昧院という西山浄土宗総本山です。京都市左京区吉田山にある「金戒光明寺」に対して、こちらは「粟生(あお)光明寺」ともよばれます。総門をくぐると、女人坂ともよばれるなだらかな表参道が続きます。

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法然上人が24歳の時、奈良に師を求めて叡山を降りて、この粟生(あお)野の里で一夜の宿を借りました。そのとき宿の主人に、教えを見出したらまず私どもにそれを説いて欲しいと頼まれました。(正面に本堂にあたる御影堂があります。)

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20年後の承安5年(1175)、浄土宗を開いた上人は、約束を守って粟生野で初めて念仏の教えを説きました。そのため、この地は法然上人の立教開宗の地とされます。(御影堂には法然上人自作の「張子の御影」が祀られています。)

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文治元年(1185)、平敦盛を討ったことで知られる武将・熊谷次郎直実が、戦によって積もる罪業を償い極楽往生の道を求めて吉水の法然を訪ねました。その教えに感銘して剃髪して弟子となり、法力房蓮生(れんせい)と名付けられました。(皇太子お手植えの松)

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蓮生は数年の修行の後、喧噪の吉水を離れて、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久9年(1198)に、上人ゆかり粟生広谷に寺を建てました。(誕生850年を記念して、昭和57年(1982)に建てらた「法然上人立教開宗の像」。)

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蓮生は法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、上人を開山第1世と仰ぎ、自らは2世となりました。上人からは「念仏三昧院」の寺号を頂き、これが光明寺の始まりです。「法然上人袈裟掛之松」と宝永4年(1707)に建てられた「経蔵」。

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3世幸阿上人の時、建暦2年(1212)に法然上人は亡くなりました。上人の晩年は奈良や叡山の古い教団から迫害を受け、没後の嘉禄3年(1227)には叡山の衆徒が大谷の墳墓を暴いて遺骸を鴨川に流そうと企てました(嘉禄の法難)。

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上人の弟子達は秘かに遺骸の石棺を嵯峨の二尊院に移し、更に太秦の西光寺に移しました。翌安貞2年正月20日の夜、上人の棺より数条の光明が放たれ、その光をたどると南西の粟生野を照らしていたという不思議な現象が起こりました。(「円光大師御石棺」)

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そこが上人ゆかりの地であることを知った弟子たちは、15㎞の道を石棺を担いで運び、同月25日遺骸を荼毘に付し、寺の裏山に骨を納めて廟堂を建てました。この時の不思議な出来事にちなんで、以後念仏三昧院は「光明寺」と称されるようになりました。

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法然上人の遺骨は弟子たちが分かち持ち、1234年弟子の源智は、大谷に知恩教院大谷寺(後の知恩院)を建立して、遺骨を廟堂に安置しました。(「阿弥陀堂」 江戸時代の1799年に再建され、平安浄土教の形式が残されていて後ろに位牌堂があります。)

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御影堂と阿弥陀堂の間に石段があり、その上に御本廟(勢至堂、背後に納骨堂)があり、法然上人の遺骨の一部が納められています。そこは境内で一番高い場所で、「極楽界」といわれ、通常立ち入りできません。

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4世証空上人(1177-1247)が入寺してから西山浄土宗として栄え、楼門、三重の塔などが建立されたといいます。御影堂の横。

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御影堂の前に戻って、梵鐘は1949年に鋳造され「遣迎鐘」(けんこうがね)と呼ばれています。発遣の「遣」と来迎の「迎」を表し、極楽に招く釈迦と、浄土から迎えに来る阿弥陀が、鐘と撞木のように出会うことを象徴しているのだそうです。

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その後の光明寺は、南北朝時代の「元弘の兵乱」(1333)により荒廃、室町時代の応仁の乱(1467-1477)でも焼失しました。(御影堂があるこの辺りは、二番目に高い場所で「天界」と呼ばれています。)

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戦国時代になると、15世・乗運空撮は後柏原天皇より香衣を着しての参内を許され、16世・舜空秀旭は後奈良天皇の勅願所となり紫衣を許されます。(御影堂の左手にある石段を下ります。下の地域は「人界」です。)

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安土桃山時時代には、ここは明智光秀の領土となり、寺領を安堵(保証)されました。しかし、本能寺の変の後、秀吉との戦い(山崎の戦い)のときに、方丈や庫裏が焼失したそうです。(正面の庫裏が様々な受付になっています。)

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江戸時代の寛永年間(1624-1644)頃には、諸堂も復興して徳川家康の援助もあったとざれます。「勅使門」 その向こうに釈迦堂があります。

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特に、32世・倍山俊意上人は本廟や伽藍を整備し、壇林(養成所)を復興して、中興の祖といわれています。「玄関」と左は「大書院」

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「円光大師火葬跡」 上で述べた法然上人を荼毘に付した場所とされます。

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「茂右衛門屋敷跡」 叡山を下りて奈良に向かう法然上人を泊めた、村役の高橋茂右衛門の屋敷があった場所です。右の石碑には「元祖法然上人他力念仏創称之処」とあります。

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「宝物館」

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「衆寮門」 江戸時代末期の建立。向うに見える「講堂」の奥に西山短期大学があります。

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ところで、今日の「気になったもの」は四条河原町の交差点南東にあるモニュメント「北緯35°物語」です。

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北緯35度線は、古代中国の徐州、洛陽、西安から日本に入り、島根、京都、大津、東京、千葉を抜け、古くは東洋文化が栄え、現在も繁栄している地帯です。そこには様々な北緯35度の物語があります

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北緯35度線は京都市の中心部を通り、四条通がほぼその位置にあたります(正確には61m南)。モニュメントは洛陽ライオンズクラブが1994年に建立、作者は版画・彫刻家の木村光佑氏。

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名称は様々ですが、各地に北緯35度を示すモニュメントがあり、近くではJR大津駅前にあります。

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光明寺に戻り、こちらは表参道と平行な「紅葉参道」、秋は紅葉のトンネルになります。

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コメント

北緯35°物語、面白い名前のモニュメントですね。
お菓子の名前みたいです。
北緯35°不思議な緯度ですよね。
日本の主要都市がみんなこの上にある。
こういうの楽しいですよね。

投稿: munixyu | 2020年5月21日 (木) 17:51

★munixyuさん こんばんは♪
かってサッポロビールが、北緯45°にビールの本場のミュンヘン・札幌・ミルウォーキーが並んでいると宣伝したそうですね。

投稿: りせ | 2020年5月25日 (月) 01:07

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