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2020年5月14日 (木)

本因坊発祥の地と新緑の金戒光明寺

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

京都の外出自粛要請もまだ続くようで、今日は新緑の金戒光明寺です(過去の写真)。あわせて「本因坊発祥の地」を紹介します。

幕末の京都守護職、会津藩主・松平容保が本陣を構えた寺で、新選組誕生の地ともいわれます。高麗門(西門)には右に「大本山金戒光明寺」、左に「京都守護職本陣 旧跡」という看板がかかっています。

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「山門」は江戸時代の万延元年(1860)に完成、楼上内には十六羅鑑像が安置され、正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額があります。天井に龍の図があるのは珍しいそうです。

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蓮池にかかる「極楽橋」、向うに三重塔(文殊塔)が見えます。 高麗門、山門に続いて一昨年から修復工事中でしたが、この日は素屋根で覆われていました。

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一ノ谷の戦いで、16歳の平敦盛(清盛の弟、経盛の末子)を討ち取った武将・熊谷次郎直実が、殺生の無常を悟り、出家を決意した場所とされます。直実が兜を置いたので別名を「兜之池」というそうです。

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奇襲にあい、逃げる平家の武将に直実は「敵に後ろを見せるのは卑怯、お戻りなされ」と叫びました。取って返した敦盛を直実は馬から組み落として、首を斬ろうと兜を上げます。

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我が子・直家と同じ年頃の若者の顔を見て助けようと名を尋ねるも、敦盛は「名乗らずどもすみやかに首を取って人に尋ねよ」というので、涙ながらに首を切ったといわれます。池のほとりに黄菖蒲(おそらく)やカキツバタが咲いていました。

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直実はその後の自身の処遇に不満を抱いて出家したという説もあります。法然を師として出家して法力坊蓮生と改名、この地に草庵を結んだとされます。草庵「熊谷堂」は何度も再興を繰り返し近代(1943年)に再建されました。

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さらに石段を上ると法然廟(右)があり、その前に熊谷直実(手前)と平敦盛の供養塔があります。

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文殊塔への石段の途中にある「五劫思惟阿弥陀仏像」 五劫という長い時間、もろもろの衆生を救おうと思惟を続けて頭髪(螺髪)がこのように伸びてしまいました。

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ちなみに、一劫とは四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年(百年という説も)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い年月だそうです。(この時は文殊塔は工事中でした。)

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塔の前から市内が展望できます。奥には西山が連なっているはずですが、逆光で写真に写っていません。

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文殊の塔への石段を下りて、伽藍が並ぶ高台にきました。「大方丈」には「紫雲庭園」や、松平容保や八重の書、若冲の「群鶏図」屏風などがあります。

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大方丈の横に「熊谷直実鎧掛けの松」があります。初代、二代とこの伝説を継承してきましたが、平成25年(2013)に枯れてしまい翌年新たに植えられました。

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「御影堂(大殿)」 内陣正面に宗祖法然上人75歳の御影(座像)を安置しています。また、獅子に騎乗する文殊菩薩様や1200余年前に吉備真備が中国から持ち帰った栴檀(せんだん)を用いて刻んだ吉備観音なども安置されています。

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「阿弥陀堂」 江戸時代の慶長10年(1605)豊臣秀頼によって再建された寺内で最も古い建物。恵心僧都最終の作の本尊阿弥陀如来が納められています。 胎内に彫刻の器具が納められているので、「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称されています。

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山門を上から。

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ところで、寺町通夷川上るに「本因坊発祥の地」の石碑があります。安土桃山時代の天正17年(1589)頃、豊臣秀吉の都市計画により洛中の寺院が寺町通に集められました。

  寂光寺(別名・久遠院)もこの地に移転させられ、通りの西に町名「久遠院前町」が残っています。 その塔頭・本因坊の住職・日海(1559-1623)は敵手がいない程囲碁が強く、織田信長に「名人」と称されました。

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1588年には豊臣秀吉が主催した全国大会で勝ち抜き20石20人扶持を与えられ、1592年後陽成天皇より権大僧都の位を授けられ昇殿を許されました。通りを渡りました。

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1603年徳川家康が幕府を開くと、江戸に招かれました。将棋も強く、囲碁と将棋の総元締めの碁所・将棋所に任じられました。このとき、寺を弟子に譲り、本因坊算砂(さんさ)と改名しました。

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後に将棋所は知友の大橋宗桂に譲りました。算砂の弟子から井上家、安井家、林家が出て四家による囲碁の家元制度が確立、本因坊家は常にその筆頭でした。

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宝永の大火(1708)で羅災した寂光寺は、幕府に替地として仁王門通東山西入の現在地を与えれて移転、算砂愛用の盤石や算砂直筆の囲碁狂歌などの貴重な寺宝を所蔵しています。(下の2枚は寂光寺。)

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昭和13年(1938)21世秀哉が引退した際、本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、囲碁は家元制から実力制に移行しました。 そして、昭和16年(1941)第1期本因坊戦が開催され、本因坊はタイトルの名称となりました。

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平成21年(2009)1月寺町商店街によって本因坊発祥の地の由来を記した駒札と御影石製の碁盤が設置されました。碁盤は向かいにある(株)人見建設の製造で「会長コラム」に式典の様子が詳しく書かれています。

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京都市観光局長、関西棋院理事長、寂光寺・住職らが出席、挨拶をしたのち、 碁石打ち初め式が行われ、プロ棋士の今村俊也九段と滝口政季九段が碁盤に向かって十数手を打ち、完成を祝ったそうです。

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金戒光明寺に戻り、山門の横に蹴上浄水場が見えます。まだツツジが咲いているようです。

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本堂の左にある墓地の前に大きな石仏があります。

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コメント

信長は囲碁は強かったのでしょうか。
信長やいろんな戦国大名と囲碁をやってみたいものです。
まぁ、その前に囲碁はよくわからないのですが・・・。

投稿: munixyu | 2020年5月14日 (木) 18:28

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