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2020年5月 5日 (火)

大江能楽堂と三室戸寺のつつじ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

現在外出自粛中です。再び京都観光ができる日のために過去に撮った今頃の写真を載せています。あわせて、いままで街中で見つけた気になるものを紹介します。

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「三室戸寺」は、山号を明星山という本山修験宗の別格本山で、西国三十三所観音霊場第10番札所としても知られています。

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三室戸寺は、奈良時代の宝亀元年(770)、光仁天皇の勅願により、南都大安寺・行表禅師が観音像を祀る御室戸寺を創建したのが始まりとされます。山門までの参道の右につつじ苑が見えます(TOPの写真)。

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平安時代になり、光仁天皇の子・桓武天皇は千手観世音菩薩像を自ら造り、その胎内に当初の本尊の観音像を納めて、改めて本尊としました。 「本堂」(府指定文化財)は、江戸時代の1814年の建設です。

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その後、平安時代を通じて皇室の帰依が続き、堂宇が整備されてきました。平安時代末には白河法皇の皇子・静証法親王(御室戸宮)が入寺しました。つつじ苑(あじさい苑)に入りました。

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この頃には、創建以来、光仁、花山、白河の三天皇の離宮(御室)になってきたので、「三室戸寺」と称するようになったといわれています。(最初に、つつじ苑の中央を流れる小川に沿って下ります。)

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つつじ苑には、平戸ツツジ、霧島ツツジ、久留米ツツジ、ミツバツツジなど2万株が植えられています。小川の対岸の斜面にはつつじが密生しています。

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ところで、桓武天皇はなぜ大きな観音像を作って、父・光仁天皇が本尊とした仏をその胎内に納めたのでしょうか?

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寺伝によると、三室戸寺の創建と本尊に関して次のような伝承があります。(橋を渡って「花の茶屋」の前を通ります。)

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天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する金色の光の正体を知りたいと願っていました。そこで、右少弁(右少史とも)の藤原犬養という者に命じて、その光の元を探らせました。

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犬養がその光を求めて宇治川の支流・志津川の上流へたどり着くと、滝壺に身のたけ二丈(6m)ばかりの千手観音像を見ました。滝壺へ飛び込んで抱き上げると、一尺二寸(36㎝)の二臂の観世音菩薩像に変わってしまいました。

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犬養は都に帰って事の始終を天皇に奏上すると、天皇は心を動かされ、早速宮中にその像を祀りました。後に、その像を本尊として御室戸寺を創建したのです。(つつじが咲く斜面を上ります。)

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御室戸寺の創建以来、その観世音菩薩像は勅封されてきました。勅封とは天皇の勅命によって封印することです。

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桓武天皇は延暦24年(805)に観世音菩薩像を開扉して大供養を営なみ、自ら最初に出現した二丈一尺の千手観世音菩薩像を彫刻して、観世音菩薩像を胎内に納めて、御室戸寺を帝都鎮護の御寺としました。

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桓武天皇は観世音菩薩像が都を守る霊力があると考えたのですが、父の勅封を守って新たに造った千手観世音菩薩像の胎内に納めたのです。

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高さ二丈の観音像は寛正年間(1460 - 1466年)の火災で失われましたが、胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事だったといいます。

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焼け残った本尊は金銅像で国宝級といわれますが、厳重な秘仏で写真も公表されていないので文化財の指定はありません。また、二臂なのに千手観音像と称しているのは、上述の経緯からだと考えられています。

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秘仏の本尊を模して造られた「お前立ち」は、大ぶりの宝冠を戴き、両手は胸前で組み、天衣の表現は図式的で、体側に左右対称に鰭(ひれ)状に広がっていて、その特徴は奈良・法隆寺夢殿の救世観音像など、飛鳥時代の仏像にみられるものだそうです。

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ところで、京都御苑の南の押小路通に面して「大江能楽堂」があります。能楽観世流大江家5世又三郎(後に竹雪)が明治41年(1908)に創建、大正8年(1919)に現在の規模に改築したものです。

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表通り(押小路通)に面して、二階建ての武者窓のある楽屋、住居部分がありましたが、先の大戦中の建物の強制疎開で取り壊されました。

しかし、舞台・見所部分の取り壊しは終戦の日にあたり、幸運にも昔の姿そのままに残すことができたそうです。

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その後、改修を重ねながらも老朽化が激しく、平成13年(2001)明治の面影をそのまま残し基礎部分を大改修しました。1・2階席桟敷席(1 部椅子席)の収容人員数は約400名、自然光の入る貴重な能楽堂です。

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鏡板の松は梢もなく株もありません。作者の国井応陽が創建者の大江竹雪に「どうか存分に根をはり、枝を伸ばし葉を茂らせ、力強く発展してくださるようご精進ください」というメッセージをこめて描いたからだそうです。

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国井応陽は円山応挙六代目の子孫です。年4回大江定期能が催され、初会は2月11日(祝)番組は能・花筐『小鍛治』、狂言『寝音曲』でした。下は昨年のポスター。

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二回目は5月6日(休)で能・班女『雲林院』、狂言『長光』の予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大のために10月26日に延期されました。

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もう一度三室戸寺に戻り、丘の上から。

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コメント

取り壊しが終戦の日とはまた、
凄い運のいい逃れ方ですね。
奇跡の文化遺産と言えそうです。
さつきは明るさが最高のいい花ですよね。

投稿: munixyu | 2020年5月 5日 (火) 13:33

★munixyuさん こんばんは♪
金属供出されたお寺の鐘が、溶かされる寸前で終戦になったというのは、ときどき見かけます。

投稿: りせ | 2020年5月 8日 (金) 23:58

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