« 春日局と本能寺の変 | トップページ | 長谷川宗仁と長徳寺のオカメ桜・寒緋桜 »

2020年3月 9日 (月)

総見院 信長の廟所

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Job_6897a
※写真は全てクリックで拡大します。

京の冬の旅で特別公開している大徳寺塔頭・総見院に行ってきました。大徳寺境内の北東にある宗務本部から西に行く道の途中にあります。土塀や山門は創建当時のものです。

「総見院」は、織田信長の一周忌を迎える天正11年(1583)、豊臣秀吉によって大徳寺117世の古渓宗陳を開祖として創建されました。寺名は、信長の戒名からとったものです。

Job_6893a

本能寺の変(天正10年6月2日)の100日後、10月11日から7日間に渡って大徳寺において信長の大葬礼が行われました。これは、信長の後継者を自負する秀吉が主催し、喪主は信長の遺児で、秀吉の養子になっていた羽柴秀勝が務めました。

Job_7185a

「豊公遺愛のわびすけ」 豊臣秀吉が千利休から譲り受けた侘助(わびすけ)椿が大きくなったと伝えられ、樹齢400年、市指定天然記念物となっています。話の都合上、写真と拝観の順序は異なります。

Job_7178a

信長の遺体がないため、運慶、快慶の流れをくむ仏師・康清に等身大の信長像を造らせ、本能寺の灰とともに荼毘に付しました。香木の沈香で造られていたので、その香りが都中に漂ったといわれています。(これも創建当時の「抜き井戸」)

Job_7098a

井筒部分の石は、加藤清正が文禄・慶長の役(1592-1598)のときに、朝鮮から持ち帰ったものといいます。ひとつの石を繰り抜いて筒にして、深さ10m以上の底からは伏流水が今も湧き、毎朝のお供えにも使われているそうです。

Job_7094a

境内の西にある墓地の奥(北)に織田家の供養塔(五輪塔)があります。左から、次男・信雄の嫡男・秀雄、次男・信雄、中央が信長本人、嫡男・信忠

Job_7111a

さらに右に、四男・羽柴秀勝、七男・信高、十男・信好、信長の長女・徳姫の供養塔が並びます。

Job_7133a

左の塀のそばに、信長の正室・濃姫(右)と側室・お鍋(左)の供養塔(石)があります。お鍋は信長の七男・信高の生母で、信長死後は秀吉の正室・ねねに仕え、前夫との長男が加賀松任城主に任ぜられるなど、秀吉に重用されました。

Job_7136a

もう一度山門まで戻り、その右手にある本堂の前庭に向かいます。右の土塀は、「親子塀」といわれる二重構造になっていて、非常時には内部の空洞部分に武士やものを隠したといわれています。

Job_6900a

「茶筅塚」があり、4月28日に茶筅の供養が行われます。総見院は当初から茶道とゆかりがありました。

Job_6904a

「照苑塔」 新しい石塔で、名前から庭園を守る仏様が祀られているのでしょうか。

Job_6911a

鐘楼と鐘(重文)は、総見院の創建時(天正11年)に信長の家臣・堀九太郎秀政が寄進したものです。

Job_6917a

天正13年(1585)秀吉が関白就任の際、信長追悼の「大徳寺大茶会」が総見院で催され、秀吉自ら方丈で茶を点てたといわれます。本堂(方丈)には開祖・古渓宗陳の木像が祀られています。

Job_6919a

さらに、本堂には天正11年作の衣冠帯刀の織田信長木像(重文)も祀られています。荼毘に付された木像と同じく康清の作で、眼力鋭く信長最晩年の面影を表しているといいます。

Job_6895a

上はポスターの写真、下は京の冬の旅のガイドブックからです。信長が亡くなった直後に秀吉が造らせたもので、他の肖像画と特徴が一致し、最も信長に似ていると考えられています。

Img_20200306_0007a

本堂の右(東)には三つの茶室があり、渡り廊下がそれらをつないでいます。三つの茶室はいずれも近代に建てられたものです。

Job_6927a

ところで、1582年6月2日山崎の戦いで明智光秀を討った秀吉ですが、天下統一にはまだ道のりがありました。「香雲軒」 表千家の十三代・即中斎が好んだ茶室だそうです。

Job_6939a

信長の後継者を決める清須会議(6月27日)では(嫡男の家系から選ぶべきであるとして)宿敵の柴田勝家を抑えましたが、10月勝家は滝川一益や信長の三男・信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名に送り付けました。

Job_6947a

このような状況の中、秀吉は信長の大葬礼を行うことで力を見せつけ、諸大名を取り込みました。渡り廊下の途中に、信長の大葬礼の際にその木像を乗せた神輿(複製かも)がつるされています(上)。

Job_6930a

秀吉は翌年(1583)4月に勝家との戦に勝利し、さらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えました。5月には信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏しました。「龐庵(ほうあん)」表千家・而妙斉による扁額がかかっています。

Job_6980a

こうして、織田家の筆頭家臣となり、幼い三法師を後継者にたてることによって実質的に織田家をも掌握しました。そして、この年(天正11年)の6月に信長の一周忌に間に合うように総見院を建立しました。

Job_6967a

翌年には、離反した信長二男・信雄を立てた家康を抑え込み、一機に天下統一へ突き進みました。このような時期に建てられた総見院には、諸大名からの寄進が相次ぎ、広大な境内に豪華絢爛な堂宇が建ち並んたといいます。「寿安席」 実業家・山口玄洞が寄進しました。

Job_6992a

しかしながら、明治の廃仏毀釈によって大規模な破却が行われ、堂塔、伽藍、寺宝などの多くが失われました。そして、残った建物は大徳寺派専門道場として雲水の修業の場となりました。

Job_7011a

大正から昭和初期にかけて、堂宇が再建され、山口玄洞により専門道場(塔頭・龍翔寺)が他に造られました。信長380年忌(1961年)にあたって、本山に避難していた信長木像が本堂に戻され、総見院は信長の廟所として復興しました。

Job_7020a

前庭の中門横の建物、ハート型の窓は猪の目に似ていることから「猪目(いのめ)窓」と呼ばれ、 古くから使われてきた意匠だそうです。

Job_6908a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Job_7062c 

|

« 春日局と本能寺の変 | トップページ | 長谷川宗仁と長徳寺のオカメ桜・寒緋桜 »

コメント

秀吉は、光秀だけでなく、
勝家にも勝ち、織田家を抑え込んだ辺りの
政治力が高かったですよね。
ただ、強いだけでは天下は取れなかったでしょうね。

投稿: munixyu | 2020年3月 9日 (月) 15:36

★munixyuさん こんばんは♪
確かに、天下を統一したということは、強いだけではなかったのでしょうね。

投稿: りせ | 2020年3月15日 (日) 00:35

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 春日局と本能寺の変 | トップページ | 長谷川宗仁と長徳寺のオカメ桜・寒緋桜 »