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2020年3月 8日 (日)

春日局と本能寺の変

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日から本能寺の変に関わった人々の、京都における足跡を記事にしてきました。春日局は本能寺の変の時は幼少でしたが、後に徳川家光の乳母となり、大奥で権勢をふるった人生に、本能寺の変が大きく関わっています。

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以下の数枚の写真は妙心寺塔頭・麟祥院です。寛永11年(1634)徳川三代将軍家光が、乳母・春日局の冥福を祈るため碧翁和尚を開山として建立した寺院でで、麟祥院は春日局の法名からです。

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斎藤福(後の春日局、1579-1643)は、明智光秀の家臣・斎藤利三の娘として生まれ、所領の黒井城の平常時の住居である下館(現興禅寺)で生まれたとされます。

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その後、父・利三は光秀に従い本能寺の変で織田信長を討ちました。しかし、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて処刑され、他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪したと考えられています。

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福は母方の実家である稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、母方の親戚に当たる三条西公国(さんじょうにしきんこく)に養育されました。

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三条西家は、藤原北家の転法輪三条家の分家のそのまた分家で、大臣家の家格を持つ公家でした。しかし、三大臣家の中でも別格とみなされて右大臣をたびたび輩出、家格は本家をしのぎ清華家とほぼ同格とみなされていました。「二尊院」

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二尊院は、戦国時代の永正年間(1504-1521)に僧・広明恵教が三条西実隆父子の協力により再興しました。下の石段を上ると、他の公家とともに、三条西家の先祖代々の墓があります。

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三条西家に養育されたことから、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけました。その後、伯父の稲葉重通の養女となり、その縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となりました。麟祥院に戻ります。

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正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者となりました。

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福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとり、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命されました。 下は「御霊屋(おたまや)」。

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乳母の選考にあたり、福の家柄及び公家の教養、夫・正成の戦功が評価されたといわれます。息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、後に老中に就任、寛永9年(1632)には相模国小田原藩主となりました。御霊屋には小堀遠州作と伝わる「春日局坐像」が安置されています。

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方丈には、春日局と親交のあった絵師・海北友松の子・海北友雪が描いた襖絵「雲龍図」「山水図」「瀟湘八景図」「西湖図」があります。海北友松は槍を振って晒されていた父・利三の遺骸を奪い真如堂に葬ったといわれています。

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山門の横にある「春日稲荷社」は家光が建立し、春日局が信仰したといわれています。

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なお、宇治の真言宗智山派「恵心院」(下)は、 徳川家康の援助で伽藍が整備され、以後徳川家の庇護を受け、1676年には現在の本堂が建てられました。本能寺の変で家康の三河への帰還を助けた縁故です。

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恵心院には春日局が、竹千代の安産祈願のために当寺に祈願したという記録があるそうです

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家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・お江の方の下で大奥の公務を取り仕切るようになりました。(妙心寺の「明智風呂」には春日局が寄進した鐘があったそうですが、火災で失われてしまいました。)

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寛永3年(1626)のお江が没すると、家光の側室探しに尽力し様々な女性を奥入りさせました。また、大奥の役職や法度などを整理・拡充するなどして、将軍の権威を背景に老中をも上回る権力を握りました。 大原の「勝林院」

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勝林院は平安時代初期の承和2年(835)、慈覚大師円仁によって開かれ古くから天台声明の根本道場でした。梵鐘は無銘ですが藤原期のもので重要文化財、鐘楼は鎌倉時代の建造、江戸初期に春日局により再建されました。

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寛永6年(1629)育ての親・三条西公国の息子・三条西実条と猶妹の縁組をして、三条西家の娘となり参内する資格を得ました。そして、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号を下賜されました。「修学院離宮」

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上の出来事を、春日局が無位無冠の身でありながら参内する「金杯事件」とよび、一連の幕府の圧力に反発した後水尾天皇が幕府に通告なしに譲位して、並々ならぬ熱意を修学院離宮の造営に注いだといわれます。しかし、後水尾天皇が春日局の参内に腹を立てたというのは、現在では後世の創作であるとされています。

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寛永11年(1634)息子・正勝に先立たれ、翌年家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えました。(金戒光明寺の池、源平の戦いで有名な熊谷直実がここで出家を決意、弓の弦を切り兜を置いたことから「兜乃池」とも呼ばれます。)

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春日局がお江の御台墓を建立して参詣するために、木造の橋を寄進したのが現在の「極楽橋」の始まりとされます。

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直実が出家して建てた草庵がこの池のほとりにあり、その後春日局が池に蓮を植え、堂を改修して名を蓮池院熊谷堂とよばれました。

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春日局は、寛永20年(1643)9月14日に死去、享年64。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺にもあります。

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横に徳川秀忠夫人・江の供養塔もあります。大奥における春日局と江との対立も後世の創作とされています。2012年に西本願寺で春日局の直筆の手紙が見つかりました。

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奉公人の母が西本願寺にいると知り「西本願寺で奉公させてもらえたら大変ありがたい」という内容です。春日局のような身分の高い人物が奉公人のために手紙を書くことは異例で、彼女の優しさが垣間見える史料とされています。

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コメント

光秀の家臣の娘が、
家光の乳母というのも、不思議な歴史の縺れですよね。
もしも光秀が、秀吉に勝っていたらどうなっていたのかと思うと、
この辺り、面白いですよね。

投稿: munixyu | 2020年3月 8日 (日) 15:03

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