« 北白川圓光寺 | トップページ | 日吉神社 真如堂の鎮守社から村の氏神へ »

2020年3月22日 (日)

換骨堂 元真如堂から尼寺へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Joc_4029a
※写真は全てクリックで拡大します。

吉田山の東の麓にある換骨堂に来ました。上の写真の左に「元真如堂 念仏堂旧跡」の石碑があります(この意味は後程)。「換骨堂」は正式名称を東向山蓮華院換骨堂という曹洞宗の尼僧寺院で、尼寺三十六ヵ所霊場の第二十四番です。

Joc_4037a

堂名の換骨とは、凡骨を取り去って仙骨に取り替える、すなわち修行をして弥陀の本願を達する(悟りを開く)という意味だそうです。(境内には椿を始め様々な花が咲いていました。)

Joc_4042a

平安時代中期、この地には一条天皇の母、東三条院(藤原詮子、962-1002)の女院離宮「白川ノ離宮」がありました。(本堂には本尊の阿弥陀如来像を祀っています。)

Joc_4049a

984年、東三条院の請願によって比叡山の戒算(かいざん)が、女院離宮に建てた小堂に延暦寺常行堂の阿弥陀如来像を遷したのが「真如堂」の始まりです。992年に離宮が寺院に改められ、995年一条天皇の勅願寺になりました。

Joc_4053a

室町時代の応仁の乱で真如堂は焼失(1468年)、その後荒廃しました。後に何度か寺地を変え、1485年室町幕府将軍8代将軍・足利義政と妻・日野富子が旧地に真如堂を再興しました。

Joc_4059a

本堂に「洛東十一番准胝(じゅんてい)観世音菩薩」という額がかかっています。「洛東」は今は失われてしまった洛東観音霊場のことだと思われます。

Joc_4062a

その後、織田信長や豊臣秀吉の入洛・都市改造により真如堂は何度か洛内を移転、江戸時代の1693年にようやく現在地(この地の南西)に落ち着きました。

Joc_4071a

その時、この地には小堂「念仏堂」が建てられ、元真如堂と呼ばれました。すなわち、最初に真如堂が建てられた場所だからです。本堂の西に石畳が続いています。

Joc_4081a

向うに、茶室「如柳庵」が見えます。

Joc_4084a

1830年京都に直下型の大地震「京都地震」が起こり、市街地を中心に大きな被害があり、念仏堂も荒廃しました。

Joc_4108a

1842年尼僧・黙旨(もくし)が尼たちの願いに応じて尼僧寺院として再興し、曹洞宗に改めました。以後、永代尼僧の住職を許され「換骨堂」と称しました。

Joc_4119a

生垣の中に井戸があります。天秤のようになっていて、一方に重りが付いています。

Joc_4139a

「閼伽井(蓮華水)」 戒算上人がお堂を建立中に蓮華童子の教示により掘り当てたといわれ、その功徳によりこの地では火災が起きなかったといわれています。蓮華井や功徳水ともいわれ、いまも湧き水があるそうです。

Joc_4146a

南隣の日吉神社との境は「蓮華岡」と呼ばれます。そこには石窟があり、石(いわ)不動明王像が安置されています。その前にも同様の由緒をもつ閼伽井(蓮華水)があります。

Joc_4166a

不動明王の脇侍として、右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、左に制多迦童子(せいたかどうじ)が肉彫りされ、あわせて不動三尊ともよばれます。

Joc_4178a

ところで、当初この地に住まいしていた藤原詮子(せんし)(東三条院)の父は藤原兼家、母は藤原時姫です。当時絶大な権力を誇った藤原道長は東三条院の弟です。石不動と本堂との間に石仏が並んでいます。

Joc_4156a

藤原詮子は幼少期を東三条殿(現在の押小路通釜座西北)で過ごし、978年円融天皇の女御となり、一条天皇を産みました。ところが円融天皇の一粒種を生みながら、関白藤原頼忠の女遵子に后の座を奪われてしまいました。

Joc_4159a

栓子は、父兼家と共に天皇を恨んで里邸の東三条邸にこもり、たびたびの召還にも応じなかったといいます。しかし、一条天皇が即位すると形勢は一変し、986年皇太后になりました。

Joc_4079a

991年円融法皇が崩御すると、詮子は出家して皇太后宮職を辞めて院号宣下を受け、居宅の東三条邸に因んで東三条院と称しました。初めての女院号でした。

Joc_4096a 

一条天皇の即位中は国母として強い発言権をもってしばしば政治に介入したといわれます。また、4歳年下の弟・道長を溺愛し、兄一家を没落に追い込んでまで道長を執政者に推挙した話はよく知られています。

Joc_4161a

一方で信仰に厚かったとされ、真如堂や慈徳寺を建立し、失脚した源高明の末娘明子を引き取り道長に嫁がせ、一条皇后定子が難産で死去した際も残された第二皇女を養女としました。(東三条院の供養塔)

Joc_4165a

東三条院は、一条天皇と道長の双方に信頼されていた院別当の藤原行成の屋敷で亡くなり、木幡にある宇治陵に葬られました。曹洞宗で永代尼寺が許されたのは他に例がなく、東三条院の所縁の地だったからと思われます。

Joc_4065a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Joc_4125a

|

« 北白川圓光寺 | トップページ | 日吉神社 真如堂の鎮守社から村の氏神へ »

コメント

石仏の感じも、
グッと春になりましたね。
のどかさを感じます。

投稿: munixyu | 2020年3月22日 (日) 18:27

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 北白川圓光寺 | トップページ | 日吉神社 真如堂の鎮守社から村の氏神へ »