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2020年3月24日 (火)

本満寺の枝垂桜(山中鹿之介と信長・秀吉)

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

京都地方気象台は京都市内で3月22日に桜(ソメイヨシノ)が開花した発表、平年より6日早いそうです。満開は3月29日から4月1日頃を見込んでいるとのことです。

昨日(3月23日)本満寺の枝垂桜はひと足早く見頃となりました。門前の「山中鹿之助幸盛墓有」という石碑、山中鹿之助は、お家の再興に執念を燃やした武将ですが、信長の天下統一の過程で最期を迎えました。

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本満寺は、室町時代の応永17年(1410)関白・近衛道嗣の嫡子・玉洞妙院日秀が、今出川新町に朝廷から敷地3万坪を与えられて創建したのが始まりです。(左に出町妙見宮がありますが、後ほど)

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戦国時代の天文5年(1536)天文法華の乱で焼かれ、一時堺に逃れました。天文8年(1539)、12世日重の代、関白・近衛尚道の外護により現在地に移り、後奈良天皇の勅願所となったといわれています。(山門を入って左にある大きな枝垂桜が満開でした。)

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江戸時代中期には塔頭10、直末55、孫末19寺があったほど興隆したという記録があります。(正面は庫裏、枝垂桜の周囲を一周します。)

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さらに、宝暦元年(1751)35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈願したことから、将軍家の祈願所ともなりました。(向には先ほどの出町妙見宮が見えます。)

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一方で、江戸時代には度重なる火災に見舞われました。寛文の大火(1661)、宝永の大火(1708)、天明の大火(1788)で焼失、その都度再建されました。

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寺町通沿いの石碑にあった山中鹿之助幸盛(1545-1578)は尼子氏の家老の家に生まれましたが、父・満幸が早世したため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられました。

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当時の尼子氏は戦国大名として最盛期で、出雲を本拠地として、直轄地は伯耆、隠岐の他石見東部、美作、因幡西部、備後北部、備中北西、備前西部まで及び、その名は中央にまで届くほどでした。

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永禄5年7月(1562)中国地方の一大勢力となっていた毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲国へ進軍、翌年8月には、尼子十旗の第1の白鹿城へ攻撃を開始しました。(向うは書院。)

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白鹿城は、尼子氏の居城・月山富田城の補給路を確保する上で重要な拠点でしたが、尼子軍は毛利軍に敗れ、月山富田城へ撤退しました。永禄8年4月毛利軍は、各地で戦いに敗れて孤立した月山富田城の攻撃を開始しました。

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尼子軍は3度にわたり毛利軍を撃退しましたが、兵糧が欠乏し兵の逃亡も相次いだため、永禄9年(1566)尼子義久は毛利軍に降伏を申し出、11月城を明け渡して戦国大名・尼子氏は滅びることとなりました。

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義久ら尼子3兄弟は、一部の従者と共に円明寺に連行され幽閉されることとなりました。幸盛は随従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れ、その後、尼子家を再興するため尽力します。(ウォルターズ美術館所蔵の山中幸盛像「月百姿」)

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永禄11年(1568)幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させ、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがいました。

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豊後・大友氏と連携して隠岐で挙兵、続々と旧臣も集まり一時は出雲の大半を回復しました。しかし、各地で毛利軍の反撃にあい元亀元年(1570)10月最後の拠点・新山城が落城、尼子勝久は脱出して隠岐へ逃れました。本堂の方に向かいます。

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同じ頃、末吉城で戦っていた幸盛も敗れ、尾高城へ幽閉されました。宍戸隆家と口羽通良の助命嘆願(懐柔)がありましたが、幸盛は受け入れず密かに尾高城を脱出、隠岐国へ逃れました。最初の再興は失敗に終わりました。手水舎の中に「洗い浄行菩薩」

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再び本土に戻った幸盛は、瀬戸内海の海賊・村上武吉や美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取り合い、山名氏再起を目指す山名豊国を味方につけ、因幡国の各地で転戦し勝利を収め勢力を拡大しました。(鐘楼は石垣が工事中でした。)

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しかし、天正3年(1575)鳥取城に入った山名豊国が毛利に寝返り、尼子再興軍は不安定な状況となりました。下は、徳川家康二男・結城秀康(後の福井藩主)の正室・蓮乗院(?-1621、鶴姫)の石廟。

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同年6月毛利軍の吉川元春と小早川隆景は、約5万の大軍を率いて因幡国に進軍、尼子再興軍への総攻撃を開始しました。本堂は明治44年(1911)にも焼失し、昭和2年(1927)に再建されました。

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「本堂」には本尊の十界大曼陀羅、および近衛尚道が奉安した日蓮上人坐像を安置しています。この像は、芹生村山麓より発見されたもので、山中より法華経読誦の声が上がったという伝説ががあります。

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幸盛は若桜鬼ヶ城に籠り、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退するも孤立、同年若桜鬼ヶ城を撤退して、第2次の尼子家再興も失敗しました。下は、月山富田城跡に立つ看板の肖像、幸盛は勇猛な美男子だったそうです。

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因幡国より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上ります。 面会した信長は「良き男」と称し、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったといわれます。

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幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指します。天正4年(1576)尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり各地の城攻めに参陣、翌年には信長の嫡子・信忠に従い、武功をあげました。境内の東に墓地があります。

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12月、羽柴秀吉が播磨西部の上月城を攻略すると、幸盛は主君・尼子勝久と共にその城に入り、尼子再興軍は、この城を拠点として最後の尼子家再興を図ります。幸盛の墓がありますが、その最期は後で。

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天正6年(1578)2月織田氏と交戦状態にあった毛利軍は3万以上の兵で播磨に進軍、上月城を包囲しました。知らせを聞いた秀吉は、1万の軍を率いて救援に向かいます。

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しかし、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられ、さらに先の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともありに、秀吉は陣を引き払い撤退してしまいます。上月城は孤立無援となり、尼子再興軍は毛利軍に降伏しました。「出町妙見宮」

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尼子勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られました。人質となった幸盛は、毛利輝元の下へと連行される途中、毛利氏家臣により謀殺されました、享年34。

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下は山中幸盛の花押、連行中の天正6年7月8日配下の遠藤勘介宛の書状から。長年の牢人時代を労い、上月城のでの戦いぶりを「生涯忘れない」と褒め、今後は何処へでも仕官するようにという内容だったそうです。

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コメント

昔は、とにかく火事だらけで、
どこも大変だったのですね。
それにしても、見事な桜ですよね。
今年は、ある意味、
空いてて、ゆっくりと見れていいかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2020年3月24日 (火) 13:48

★munixyuさん こんばんは♪
お返事が滞りすみませんでした。毎年見ている本満寺の桜ですが、枝ぶりが見事ですね。三方が建物に囲まれているので、台風の被害も少なかったようです。

投稿: りせ | 2020年4月 3日 (金) 00:29

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