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2020年3月15日 (日)

蒲生氏卿と本能寺の変

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

蒲生氏卿(がもううじさと)は織田信長と豊臣秀吉に仕え、信長にその才能を高く評価され、秀吉には徳川家康よりも恐れられたキリシタン大名です。(上は滋賀県蒲生郡日野町役場。)

蒲生氏卿は、六角承禎の重臣で日野城主の蒲生賢秀の三男として生まれ、幼名は鶴千代と名付けられました。日野城(中野城ともいう)の遺跡は日野川ダムの建設によって大部分が破壊・水没しました。

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永禄11年(1568)観音寺城の戦いで六角氏が滅亡しても賢秀は日野城に籠城を続けました。しかし、説得されて鶴千代を人質に差し出し、織田信長の臣下となりました。日野川ダム湖。

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鶴千代と会った信長は「蒲生の息子の瞳は他の者と違い、ただ者ではあるまい。私の婿にする」といい、自身の次女を娶らせる約束をしました。 日野町の鬼室神社、氏郷もお詣りしたかも知れません。

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江戸時代になると日野城跡に仁正寺藩の陣屋が構えられ明治維新まで続きました。明治になって建物は西大路小学校校舎として使用された後、大正7年(1918)相国寺の塔頭・林光院(下)に移築され、方丈・庫裏として現存しています。 

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鶴千代は岐阜の瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事して儒教や仏教を学び、斎藤利三の奨めで武芸を磨きます。岐阜城で元服した際には信長自らが烏帽子親となりました。 林光院の方丈(間接的ですが日野城の名残を伝えています。)

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永禄12年(1569)南伊勢大河内城の戦いで14歳の初陣を飾りました。戦後、信長の次女を娶って日野に帰国しました。なお、この妻の実名は不詳で、通称の冬姫は誤りだそうです。

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元亀元年(1570)氏郷は父と共に柴田勝家の与力となり朝倉攻めに加わり、5,510石の領地が加増されました。続いて、姉川の戦い、伊勢長島攻め、鯰江城攻め、小谷城攻め、長篠の戦い、有岡城の戦い、天正伊賀の乱などで武功を挙げました。本堂の本陣

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天正10年(1582)信長が本能寺の変で自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡して、城内にいた信長の一族を保護しました。(本能寺の跡地)

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さらに、賢秀と共に居城・日野城へ走って乗物50丁、鞍つき馬100頭、伝馬200頭を支度して明智光秀に対抗しました。光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、

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次に日野城攻略に移る手筈でしたが、直前に山崎の戦いで敗死しました。同年、氏卿は蒲生家の家督を相続しました。(本能寺の跡地の中心部は老人福祉センターになっています。) 

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清洲会議で優位に立った羽柴秀吉に従い、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに参陣しました。戦後、亀山城を与えられますが、自身は入城せず家臣の関盛信を配置しました。紙本著色蒲生氏郷像

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天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは3月に峰城、4月に戸木城、5月に加賀野井城を攻めました。8月の菅瀬合戦では鉄砲で狙撃されました。その後は別働隊として羽柴秀長らと共に織田信雄を監視、羽柴軍撤退の際は殿(しんがり)を務めました。

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戦後、伊勢松ヶ島12万石に加増・転封となり、秀吉から「羽柴」の苗字を与えられました。松ヶ島城は現存せず、城跡が三重県の文化財に指定されています(上の写真)。この頃、大坂で洗礼を受けレオンの霊名を称したとされます。(下は松坂城の本丸上段の石垣。)

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天正15年(1587)の九州征伐では前田利長と共に熊井久重が守る岩石城を落とす活躍を見せ、翌年、伊勢国飯高郡で松坂城の築城を始め、寺院を町の外側に置き、松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げました。

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同年、正四位下・左近衛少将に任じられ、豊臣姓を下賜されました。天正17年(1589)の方広寺大仏殿の石組工事で、二間四方の石を大津の三井寺の上から切り出して運び、諸大名の中で最大だったといいます。(旧大仏殿、現豊国神社の石垣)

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天正18年(1590)の小田原征伐では、討死を覚悟して肖像画を残して出陣。韮山城を落とした後、小田原城包囲軍に参加、敵将の太田氏房から夜襲を受け、甲冑を着る余裕がなくたった一人乱戦の中で槍を抱えて敵兵を次々と討ったといいます。

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一連の天下統一に関わった功により、天正18年(1590)伊勢より陸奥国会津に移封され42万石、後の検地・加増により91万石の大領を与えられました。(松坂城の本丸、左に天守台)

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これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置で、当初は細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされます。しかし、秀吉が氏郷の力を恐れて遠ざけたという説が有力です。(ここからの写真は会津若松城。)

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会津において、黒川城を7層楼の天守を有する城へと改築、氏郷の幼名と蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けました。築城と同時に城下町の開発を行い、町の名を黒川から若松へと改めました。

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氏郷は会津の領民にもキリスト教への改宗を勧め、会津若松市内には天子神社という教会跡があり、支城の置かれた猪苗代にはセミナリオがあったそうです。(向うは堀にかかる廊下橋。)

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氏郷は農業政策より商業政策を重視し、旧領の日野・松阪の商人を若松に招聘し、定期市の開設、楽市・楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築きました。(黒瓦の頃の天守)

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天正19年(1591)従三位参議に任じられました。翌・文禄元年(1592)の文禄の役では、肥前名護屋城へと参陣しました。氏郷はこの陣中で体調を崩し、文禄2年(1593)11月に会津に帰国するも病状が悪化、 (会津戦争直後の若松城)

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翌年春に養生のために上洛しました。しかしこの頃には病状がさらに悪化、秀吉は前田利家や徳川家康にも名のある医師を派遣するように命じ、自らも曲直瀬玄朔を派遣しました。大徳寺塔頭・黄梅院

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文禄4年(1595)2月7日、伏見の蒲生屋敷において病死、享年40。墓は大徳寺塔頭・黄梅院にあります。墓地は拝観できませんが、山門を入ったところに墓の存在を示す石標があります(一番左)。

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氏郷没後、後継の秀行は家臣団の統制がままならず会津から宇都宮12万石に減封・移封されました。正室も宇都宮に移りましたが、関ヶ原の戦いで秀行が東軍に与して功を挙げたことから会津60万石に戻されました。

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先日、百万遍知恩寺に行ったときに、氏郷の正室の墓を見つけました。圓光大師の御本廟・念字門の前に石標があります。蒲生氏郷は戦国武将では珍しく側室を置かなかったことで知られます。

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側室は晩年、京都嵯峨で過ごし、寛永18年(1641)81歳で死去、法名は相応院殿月桂凉心英誉清薫大禅定尼姉。今まで「冬姫」と呼ばれてきたのは、「永禄十二年冬姫を嫁がせた」という記述を誤読したものといわれています。

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氏郷は茶湯に深い造詣があり、利休七哲の筆頭に数えられ、利休から「文武二道の御大将にて、日本におゐて一人、二人の御大名」と称されました。利休が処罰された時、秀吉に懇願して利休の子・千少庵を庇護しました。

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氏郷の故郷、滋賀県蒲生郡日野町にある滋賀農業公園ブルーメの丘

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コメント

りせさん、大河ドラマの台本を
読んでいるみたいな感じ。
面白いですね。

投稿: 8mama | 2020年3月15日 (日) 21:59

★8mamaさん こんばんは♪
大河ドラマのおかげで、今まで気にしていなかった人物の半生や足跡を調べるようになりました。動乱の世の中で、それぞれの人なりの生き方をしてきたことが分かってきました。

投稿: りせ | 2020年3月22日 (日) 00:20

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