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2020年3月10日 (火)

長谷川宗仁と長徳寺のオカメ桜・寒緋桜

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

出町にある長徳寺のオカメ桜を見てきました。「長徳寺」は、江戸時代初め(1605年)に摂津溝口領主の長谷川宗仁(そうにん)によって、万愚牛廊を開山として裏寺町(中京区)に創建されました。

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宗仁は、京都の町衆出身の武将で、信長、秀吉、家康のそれぞれに仕え、本能寺の変では重要な役割を果たしました。以下では桜を見ながら、宗仁の生涯をたどります。

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京都の有力町衆であった長谷川宗昧の一族と考えられ、永禄12年(1569)から元亀元年(1570)の間、堺の商人・今井宗久と組んで織田家の但馬生野銀山の確保を援助し、その後の銀山経営の利権を得ました。

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天正元年(1573)信長の家臣たちに混じって、下京で銀子や米の徴収を行っていることが分かっており、このような京での奉行活動を経て次第に信長の家臣化していったと見られています。(庫裏)

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同年8月24日信長の命により朝倉義景の首級を京へと送り獄門にかけ、天正6年(1578)元旦に信長が催した茶会の中に、織田信忠・明智光秀・羽柴秀吉ら織田家の要人と共に名を連ねています。

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天正10年(1582)3月の甲州征伐に側近として同行、戦後、命じられて武田勝頼ら4名の首級を一条通の辻に晒したといわれています。(長徳寺は非公開で、山門から中を覗いてみます。)

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同年6月2日に本能寺の変で信長が自刃すると、宗仁は即座に備中に布陣していた羽柴秀吉に飛脚を送り、6月3日夜あるいは6月4日未明には秀吉に届いたとされます(異説もあり)。(長徳寺の庭の向こうに大文字が見えます。)

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秀吉は信長の死を隠して毛利と和睦、6月6日に京に引き返したと考えられています。「生柳(うりゅう)弁財天」が祀られ、家内安全、福寿延長、無病息災、良縁成就のご利益があると書いてあります。

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毛利が本能寺の変を知ったのはその翌日だったといわれています。もし、毛利が信長の死を知っていたら和睦はならず、中国大返しもなかったのではないかと考えられています。(地蔵堂)

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安置されている「北向地蔵尊」には伝承があります。かつて百済国王の守本尊だったとされ、飛鳥時代の舒明天皇の頃、一切教と共に百済から日本に伝わり宮中に安置、平安時代の823年嵯峨天皇が西寺の守敏僧都に下賜されました。

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その後の変遷を経て、安土桃山から江戸時代にかけて関白太政大臣を務めた鷹司信房の命で長徳寺に遷されました。長徳寺2世念誉がお堂を建てて安置すると、94歳まで長生きしたといいます(延命地蔵とされています)。

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山崎の戦いで秀吉が勝利すると宗仁は秀吉に仕えます。秀吉の下でも側近として用いられ、天正17年(1589)には豊臣家の直轄領であった伏見の代官に任じられました。

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秀吉の対フィリピン貿易の責任者を務め、文禄2年(1593)にはフィリピン総督の使節としてペドロ・バプチスタ(フランシスコ会司祭)を日本に招き、翌年自らもマニラに渡航しました。

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名護屋城築城にあたっては本丸数寄屋や旅館などの作事奉行を担当、文禄2年(1593)には明からの使者の饗応役を務め、慶長3年(1598)の醍醐の花見の際にも秀吉の側に控えました。(見物の人が増えてきました。)

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秀吉の死後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、細川幽斎がこもる田辺城包囲に参加しました(田辺城の戦い)。(隣の駐輪場からもオカメ桜が見えます。)

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しかし、子の長谷川守知が佐和山城の援軍に行った際に、攻撃した東軍に内通して陥落させた功績があったと認められ、戦後に宗仁の所領は取り上げられることなく赦されました。

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以後、豊臣家を離れて徳川家康に仕え、北政所の番を務めました。慶長11年(1606)2月9日没し、享年68歳。自らが創建した長徳寺に葬られました。(フェンスの向こうの寒緋桜も咲いていました。)

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長谷川宗仁は茶人として活躍、画家としても評価され法眼(仏教の高位から技芸の尊称)を叙任されました。名護屋城本丸の障壁画は狩野光信と宗仁が共同で手がけたとされますが焼失しました。

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江戸時代の大火で長徳寺は焼失し、1672年に現在地に移転・再建されました。同様に移転してきた南隣の常林寺、正定院とともに、浄土宗の「砂川の三軒寺」と呼ばれました。

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