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2020年2月 2日 (日)

知恩院 御廟・勢至堂へ上る

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事につづいて、途中の伽藍を見ながら、山の中腹にある法然上人の御廟と勢至堂に上ります。

「寶佛殿(ほうぶつでん)」 平成4年に建てられた納骨堂です。堂内には阿弥陀如来像・四天王が安置されており、地下に遺骨が奉安され永代供養されます(10日前までに予約が必要)。

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寶佛殿の横から「大鐘楼」(重文)に上る石段があります。

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釣鐘は寛永13年(1636)の鋳造で、高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トンあり、京都方広寺、奈良東大寺と並ぶ大鐘として知られています。鐘楼は延宝6年(1678)の造営。柵に扉があり円山公園に抜けることができます。

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「納骨堂」 昭和5年に造立され、合祀で遺骨をお納めています。堂内に阿弥陀三尊像・二十五菩薩が安置され、地下に結縁の方々の遺骨が奉安されます(予約不要ですが「火葬許可証」の原本が必要な場合あり)。

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「経蔵」(重文) 三門と同じ元和7年に建てられ、唐様と和様を取り入れ建築様式は型にはまらない造形美を見せています。徳川2代将軍・秀忠が寄贈した宋版大蔵(一切)経約六千帖を安置する八角輪蔵が備えられています。

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昨日の記事では、建永2年(1207)、法然上人は四国讃岐に流罪されたことを書きました(建永の法難)。右に「圓光大師(法然)本廟路」の巨大な石標。

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建永元年(1206)後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に、院の女房、松虫・鈴虫が草庵での念仏法会に参加して、安楽・住蓮を慕って出家してしまいました。左は法然上人像、ここを「智慧乃道」というのは、修行中「智恵第一の法然房」と呼ばれたからです。

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上の事件は上皇の逆鱗に触れ、安楽・住蓮は死罪、法然上人は讃岐国へ流罪となりました。讃岐国滞在は10ヶ月と短いものでしたが、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、高松市には法然を偲ぶ法然寺も現存しています。

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その後、摂津国豊島郡(現箕面市)の勝尾寺に滞在、配流から5年後の建暦元年(1211)年に帰京できましたが、吉水の旧房は荒れ果てており、今の勢至堂のある場所、大谷の禅房に住むことになりました。

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法然上人御廟所の山門(TOPも) この地が、法然上人が終焉を迎えるまで念仏の教えを自ら広めた大谷の禅房の故地で、知恩院発祥の地でもあります。

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「勢至堂」 現在の建物は享禄3年(1530)に再建されたもので、現存する知恩院最古の建造物です。堂内正面に後奈良天皇の筆による「知恩教院」の額が掲げられ、知恩院の名の起源となっています。

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かって法然上人の尊像(御影)を祀っていましたが、後で建立された御影堂に移されたため、上人の本地身とされる勢至菩薩像(重文)を祀っています。上人終焉の本地の堂ということで、本地堂ともいわれています。

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勢至堂の左手の建物に巨大な仏像の頭部が安置されています。他にあった大仏を知恩院に遷すことになって、分解して頭部を運んだときに火事で元のお堂と大仏の胴体が焼失してしまったそうです。

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帰京した翌年病床についた法然上人は、弟子の源智上人の願いを受け、念仏の肝要をしたためます。「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と述べた『一枚起請文』です(横に全文が掲示してあります)。「蓮華堂」

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そして、年が明けた建暦2年(1212)正月25日、法然上人は80歳で亡くなりました。

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「御廟堂の拝殿」(京都府指定文化財) 江戸時代の1710年建立、毎月25日に別時念仏会が開かれているそうです。

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奥にある「御廟堂」は、正面に唐門がある宝形造で、周囲に玉垣が巡らされ、法然上人の遺骨を安置しています。江戸時代の1613年に常陸国土浦城主松平伊豆守の寄進により改築されました。

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勢至堂の右横の「紫雲水」 法然上人入滅の時、この小さな池に聖衆が来迎し紫雲が水面に現れて、芳香が漂ったといういい伝えが残っています。

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勢至堂の右奥に「御廟所寺務所」があります。

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「影向石 (ようごうせき)」 寺務所前の崖下にあり、法然が臨終の際、賀茂大明神が降臨したといわれます。チャートの岩盤だそうです。この左奥に墓地があります。

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「千姫の墓」 秀忠の長女で、幼くして豊臣秀吉の息子秀頼へ嫁ぎますが、大坂の陣で徳川家に保護されました。その後、姫路城主・本田忠政の嫡男忠刻と再嫁、忠刻病死により出家して天樹院と号し、江戸の竹橋御殿で余生を過ごしました、享年70歳。

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「濡髪大明神」 御影堂ができたために住家を追われたキツネが、第32世雄譽霊巌上人にお願いし、代わりに用意してもらったのが、この社です。「濡髪」は童子に化けていたときに髪が濡れていたことに由来します。縁結びのご利益があるとか。

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コメント

濡髪大明神は、キツネが作ったのですね。
なんか、いい話ですね。
そのキツネに会ってみたいものです。

投稿: munixyu | 2020年2月 2日 (日) 12:01

★munixyuさん こんばんは♪
記事では紹介できませんでしたが逸話があります。お堂が建てられるときに穴ぐらが壊されて住処を無くした白狐が、住職に仕返しをしようと子供に化けてやってきました。雨の日に外で住職の説法を聞いているうちに、自分愚かな考えに後悔して住職に打ち明けました。住職は白狐を哀れんで、祠を建て狐を祀り、男の子の髪が濡れていたので濡髪大明神と名付けたそうです。

投稿: りせ | 2020年2月 6日 (木) 01:05

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