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2020年2月22日 (土)

織田有楽斎と本能寺の変

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は、織田信長の弟・長益(後の有楽斎)の京都に残る足跡をたどります。信長とは年齢が13歳離れており、母は父・信秀の側室のうちの一人と推察されています。 何枚かの写真は、後に有楽斎が再興した正伝院(元・正伝永源院)です。

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天正2年(1574)尾張国知多郡を与えられ大草城を改修。以降、信長の長男・織田信忠の旗下にあったと思われ甲州征伐などに従軍しました。天正9年(1581)の馬揃えに登場、森長可・団忠正と共に上野国に出兵し、小幡氏を降伏させました。

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天正10年の本能寺の変では、信長の長男・信忠とともに二条新御所(二条御新造)に立てこもりましたが、長益自身は脱出して近江国安土を経て岐阜へ逃れたとされます。下は二条新御所があった御池・両替町通のあたり。

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建仁寺の方丈庭園の南西隅にある七重の塔は、織田有楽斎が兄の信長追善のために立てた供養塔です。

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織田家には家伝の椿があり、花がピンク色なのが特徴です。現代まで伝わり「有楽椿」、別名「侘助椿」といいわれています。下は有楽斎お手植えと伝わる樹齢350年の有楽椿がある高台寺塔頭・月真院(通常非公開、ねねの道から)。

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変の後は甥の信雄に仕えて検地奉行などを務め、小牧・長久手の戦いでは信雄方として徳川家康に助力、蟹江城合戦にも参陣してます。戦後家康と羽柴秀吉の講和の折衝役を務め、天正16年(1588)豊臣姓を下賜されました。

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等持院の方丈北庭の茶室の前にある有楽椿は、豊臣秀吉の命による秀頼の再建時に植えられたとされます。樹齢400年以上で、幹が三又になっていて現存する有楽椿のうち最大だそうです。

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天正18年(1590)の信雄改易後は、秀吉の御伽衆として摂津国島下郡味舌(現在の大阪府摂津市)2000石を与えられました。姪の淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会いました。

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秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男・長孝とともに総勢450の兵を率いて参戦、小西隊・大谷隊・石田隊・宇喜多隊と転戦、一時は本多忠勝の指揮下に入り、大山伯耆などの石田隊の横撃部隊を撃退しました。

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長孝は戸田重政、内記親子の首を取り、有楽自身も石田家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げました。戦後その功績を認められ、有楽は大和国内で3万2000石、長孝は美濃野村に1万石を与えられました。

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この頃剃髪して有楽(うらく)・如庵と称し、正伝永源院には剃髪姿の織田長益像が残っています。賛は古澗慈稽です。関ヶ原の戦の後も豊臣家に出仕を続け、淀殿を補佐しました。

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大坂冬の陣では大坂城にいて、穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担いました。一方、嫡男の頼長は強硬派で和平派としばしば対立しました。龍安寺の東庭にも秀吉が寄進した有楽椿があります。

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冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出しました。大坂夏の陣を前にして「誰も自分の意見を聞かず、もはや城内にいても無意味」と家康・秀忠の許可を得て豊臣家から離れました。

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大坂退去後は京都に隠棲、茶の湯に専念しました。元和元年(1615)四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け、有楽本人は隠居料として1万石を手元に残しました。三男・俊長は出家して妙心寺大雲院に住しました。

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元和4年(1618)建仁寺の子院・正伝院(現在の正伝永源院)を再建し、院内に茶室「如庵(じょあん)」(国宝)を設けました。元和7年12月に死去、正伝院に葬られました、享年75。

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有樂斎の墓(上)の左に(右から)夫人、娘、孫の墓が並んでいます。明治5年(1872)の京都府による窮民産業所設立のため伽藍や如庵など境内の建物を放棄、墓は現在地に遷されたものです。

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織田有樂斎は千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられ、後に自ら茶道「有楽流」を創始しました。正伝院に設けた茶室・如庵は、現在は愛知県犬山市名鉄犬山ホテル内の有楽苑(うらくえん)に移築されています。

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茶室は二畳半台目の向切りで、?(こけら)葺き入母屋風の妻を正面に向けた瀟洒な構えです。三畳の勝手の間、炉と水屋を備えています。篠竹を打ち詰めた「有楽窓」や古暦を腰に貼った「暦張り」でも知られています。

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二畳の小間と違ってゆとりがあり、かつ緊張感を失わない室内空間は「二畳半、一畳半は客を苦しめるに似たり」と言い切った有楽斎の面目躍如といわれています。

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端正で利休の草庵茶室とは一線を画し「武家の節度」を感じさせる名席中の名席として各地に写しが造られました。平成8年(1996)正伝永源院に如庵が復元されました(上の写真)。

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建仁寺塔頭・両足院の「水月亭」は如庵の写しで、半夏生が咲く池の畔にあります(上と下の写真)。

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仁和寺の霊明殿の西の木立の中にある「遼廓亭(りょかくてい)」(重文)も二畳半台目の茶室、四畳半の水屋と広間、控えの間・勝手の間、躙口で構成され、全体の意匠は「如庵」を手本にしているといわれます。

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織田長益の子孫は長益系織田家嫡流として現在に続いています。織田裕美子氏はその第16代当主で、有楽流の宗家としては17代目だそうです。利休の茶は草庵の茶、有楽斎のは書院の茶といわれています。

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広い部屋で台子(だいす)という大きな棚を使うのを基本とし、帛紗は他とは違い帯の右側にはさむみます。武家だから左側には刀が入るからだそうです。大徳寺塔頭・総見院にも秀吉が寄進した有楽椿があります。

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上述の長益の長男・長孝は正室の子ではなく関ヶ原の戦いの後独立して野村藩を立藩しました。嫡男(次男)の頼長は、有楽斎の後を継ぎ、安養寺の末寺「左阿弥」を建立、茶事を極めました。

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左阿弥は円山公園東の坂の途中にあり、現在は料理旅館となっています。四男・長政は戒重藩(後の芝村藩)、五男・尚長は柳本藩の藩祖となり、いずれも1万石の外様大名として明治まで続きました。

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織田長益は本能寺の変や大阪夏の陣で戦を避けて逃げ、秀吉や家康に仕えたことから、卑怯者と非難されました。しかし、キリスト教禁止令後に、洗礼名を号や茶室に用いるしたたかさもあったようです。

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コメント

織田家には家伝の椿があったのですね。
ピンク色というのが信長らしくなくて、
そのギャップがまたいいですね。

投稿: munixyu | 2020年2月22日 (土) 11:59

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