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2020年2月23日 (日)

誠心院と和泉式部

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事の誓願寺から新京極通を南に少し行くと、誠心院があります。こちらも和泉式部ゆかりの、というより通称「和泉式部」と呼ばれる寺です。

「誠心院(せいしんいん)」は正式名称を華嶽山(かがくざん)東北寺誠心院という真言宗泉涌寺派の寺院です。この寺の創建は和泉式部の生涯とかかわりがあります。(左の石碑には池西言水句…とありますが、説明は後ほど。)

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和泉式部は、越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれ、美貌と歌の才能に恵まれ、冷泉天皇の皇后・昌子に仕えました。20歳の頃、和泉守・橘道貞の妻になり、夫の任国と父の官名により「和泉式部」と呼ばれました。

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道貞との間に、後に母譲りの歌人として知られる「小式部内侍(こしきぶのないし)」が生まれますが、結婚生活は破たんして帰京後は別居します。冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に知られ、身分違いであるとして親から勘当されました。

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為尊親王の死後、その同母弟・敦道親王の求愛を受けます。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因となりました(式部25歳の頃)。恋愛遍歴が多く、道長に「浮かれ女」、紫式部に「けしからぬ方」と評されたのはこの頃です。

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敦道親王の召人(女房)として一子・永覚を設けますが、父子ともに相次いで亡くなりました(29歳の頃)。本堂には本尊・阿弥陀如来像、尼僧姿の和泉式部坐像、藤原道長像が安置されています。

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尼僧姿の和泉式部坐像は江戸時代の作で、ポスターとなって入口付近で参拝者を出迎えています。

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その後、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として仕え、33歳の頃丹後守・藤原保昌と再婚しました。本堂前にある「水かけの行者」(神変大菩薩像)の石像、幕末の大火で消失した神変大菩薩像(木造)を再興したものです。

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47歳の頃に娘の小式部内侍に先立たれ、書写山円教寺の性空上人の勧めで誓願寺の本堂に籠り、六字名号(南無阿弥陀仏)を唱える毎日だったそうです。和泉式部の歌碑「霞た津 はるきにけりと 此花を 見るにぞ鳥の こゑもまたるる」

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そんな式部のために、彰子は父・藤原道長に頼んで、法成寺東北院のそばに小御堂(こみどう)を建てました。式部58歳の時には夫・保昌も亡くなり、出後して小御堂に住まい朝夕に本尊・阿弥陀如来を詣でたといいます。

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その頃詠んだ「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」は性空上人にあてた歌です。「百八観音」、下の台座に「合祀型納骨永代供養」が行わます。

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中央は和泉式部をしのぶ聖観音菩薩で「式部千願観音」と名づけられました。式部千願観音の八角形の台座の六面に願主の名が刻まれています(募集中)。

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上の歌の返しに和泉式部は性空上人から袈裟をもらい、それを着て命を終えたといわれます。本堂の裏に式部の墓所とされる宝篋印塔があります。鎌倉時代天和2年(1313)の建立です。

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和泉式部は、当時はできないとされた女人往生(仏になること)を成し遂げ、六字名号を念仏する人には25菩薩とともにお迎えに来るという謡曲「誓願寺」が生まれました。この「宝篋印塔」はその謡曲にも現れます。

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小御堂は東北寺誠心院と呼ばれ、当初は御所の東にあったそうです。後の鎌倉時代に鴨川の氾濫などがあり、小川通一条(上京区)に移転しました。この頃、泉涌寺の末寺となりました。

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安土桃山時代の天正年間に豊臣秀吉の都市改造により現在地に移りました。この移転の際に建立された「阿弥陀如来」と「二十五菩薩石像」が宝篋印塔の後ろに再建されています。

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横には、中興の檀越(檀家)「山口家一族の墓所」があります。山口甚介をはじめとする山口家一族は、秀吉の命により誠心院の移転・再興を担当し、上の石像を建立しました。

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右は、長唄の杵屋六左衛門の碑、中央は俳諧師・紫藤軒言水の墓、上に「凧(こがらし)の果は有けり海の音」の代表句。左は墓建立の由緒。言水は、池西言水あるいは「木枯らしの言水」ともいわれ、江戸俳壇に新風を吹き込んだ先鋭的な俳人でした。

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33歳で京都に移住して、北越、奥羽、九州などを行脚しながら、京都俳壇を代表する俳人の一人として活躍しました。下は庫裏で、御朱印はこちらでいただけます。

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誠心院は幕末の蛤御門の変で焼失、さらに明治5年(1872)に造られた新京極通によって境内を分断され、山門や堂宇を失い、その後荒廃してしまいました。境内の北は墓地になっていてその奥に六地蔵があります。

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平成9年(1997)になってようやく山門が再建されました。最近は「阿弥陀如来と二十五菩薩石像」、「神変大菩薩」の再建、「百八観音」や「式部千願観音」の建立、式部の墓を始めゆかりの人々の墓を整備するなど、再建の途中だそうです。

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山門からの通路に、当院に伝わる「和泉式部縁起絵巻」(江戸時代)の絵画部分のパネルがあります。上巻は女人往生を遂げるまで、下巻は謡曲「誓願寺」の題材となった一遍上人との出会いです。一遍上人が誓願寺でお札を配っていると、見知らぬ女性が現れました。

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女性は「誓願寺の額を南無阿弥陀仏に書き換えなさい。これはご本尊のお告げです」といい、上人が名をたずねると「私は和泉式部。あそこに見える誠心院の小御堂が私が往生したお堂です」といいます。

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そして、石塔の辺りまで来ると忽然と姿を消しました。上は下巻五「和泉式部の墓」で先ほど見た宝篋印塔が描かれています。上人が額を書き換えると、周囲に紫雲がたなびき和泉式部が歌舞の菩薩たちとともに現れました。

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人々は驚喜し、一遍上人はおどろいて合掌し礼拝しました(下巻六「和泉式部の来迎」) 。

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コメント

こういう、言い伝えや伝説ものは、
面白いですよね。
嘘なのか、本当なのかわかりませんが、
本当であってほしいということに、
ロマンを感じます。

投稿: munixyu | 2020年2月23日 (日) 18:00

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