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2020年2月16日 (日)

本能寺 その歴史と春の寺宝展

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は寺町京極、新京極の寺社を巡ってきました。先日から本能寺の変にゆかりの人物の足跡をたどってきましたが、今日は現在の本能寺の歴史と寺宝展を紹介します。

上の「総門」は、1880年に恭明院の門を移築、国の登録有形文化財です。大河ドラマの影響か、境内はいつもより大勢の方で賑わい、甲冑姿の方が案内をしていました。

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「本能寺」は室町時代の応永22年(1415)日隆上人によって創建された「本応寺」が始まりで、法華宗本門流の大本山です。当寺では「能」を「䏻」という俗字で表してきました。度重なる火災のため、「ヒ(火)」が「去」るという意味で変えているといわれています。宝物館の「大寶殿」、後で訪れます。

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日隆上人は伯父の日存・日道両上人と共に妙本寺(現・妙顕寺)の綱紀の粛清に務めましたが成功せず同寺を去りました。油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立、日蓮上人の教えの法華経の題目を人々に唱えさせるべく布教を始めました。

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本応寺は1418年に妙本寺の教徒によって破却されましたが、1429年に豪商の小袖屋宗句の援助により内野(現在の西陣あたり)に再建されました。1433には信者の如意王丸を願主にして六角大宮に再建され、本能寺と改名しました。「本堂」

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しかしながら、1536年の「天文法華の乱」で、延暦寺僧兵に加勢した守護六角氏らの近江軍6万(あるいは15万)に対して2万の勢力で対抗しましたが、伽藍は焼失してしまいました。

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1545年に日承上人(第8代貫首)が四条西洞院に本能寺を再建し、延暦寺との和議も成立して、七堂伽藍、厩屋、多くの子院が建ち並ぶ壮大な堂宇が築かれました。

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昨日の記事のように、上洛したときの織田信長の仮宿所とするために、村井貞勝らによって周囲に堀をめぐらした城郭のように改造されましたが、1582年の本能寺の変で焼失してしまいました。向かいの建物は宝物館があるビルです。

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1589年に第14代貫首・日衍(にちえん)上人によって再建されましたが、豊臣秀吉によって現在地の寺町御池に移転が命じられ、堂宇が完成したのは1592年だったそうです。(境内の南には塔頭が並んでいます。)

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1788年の「天明の大火」、1864年の「蛤御門の変」でそれぞれ焼失しました。向うの「火伏せのイチョウ」は天明の大火では水を吹き出し、身を寄せていた人々を救、蛤御門の変のときも水を吹き出し、下にある塔頭・龍雲院だけが類焼を免れたといいます(京都市指定保存樹)。

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明治時代になると、上知令によって境内地の大半を失いました。現本堂は、工学博士天沼俊一の設計により、1928年に室町時代の枠を集めた木造大建築である創立当時の姿を再現したものです。「信長公廟」の拝殿 

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信長公廟の供養塔は1582年に信長の三男・信孝が建立、信長が所持していた太刀が納められているそうです。

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隣には、本能寺の変で戦死した信長の側近115名の供養塔もあります。その左の本堂裏には、本能寺ゆかりの人々の墓(供養塔)が並んでいます。

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手前から、8代将軍・徳川家重夫人供養塔、霊元天皇に女官として仕えた菅中納言局庸子の石塔、島津家当主・島津義久夫人(種子島時尭の娘)石塔。いずれも本能寺に帰依した女性たちです。

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「宗祖日蓮大菩薩御廟」 左右に開祖・日隆上人など歴代貫主の墓が並んでいます。

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境内の一番奥(東北隅)に宮内庁管轄の「日承王墓」があります。日承上人は後伏見天皇7世皇孫で、幼少で入寺して1543年第8世貫主となり、本能寺を現在地に再興しました。

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帰りに春の寺宝展を観てきました。先ほどのビルの2階が展示室で、1階には鎧兜や互、天下布武の人形などが展示してあり、撮影可能です。寺宝の写真はパンフレットやポスターからの転載です。

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本能寺の寺宝は、上で述べた数々の災難を逃れて守り伝えられてきた、宗教的遺宝、檀信徒が寄進した文化財、本能寺の変や織田信長にゆかりの品々です。「大本山本能寺宗祖御尊像」、日蓮上人の像です。

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「織田信長公肖像画」 本能寺に伝えられているこの肖像には髭がないのが特徴だそうです。

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「屏風の礼状」本文を書いたのは武井夕庵、署名と花押は信長の直筆です。武井夕庵は武士ですが、信長の右筆(ゆうしつ、秘書)として仕、本能寺の変の時は他所にいて生き延びましたが、高齢のためまもなく消息が不明となりました。

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「麒麟の香炉」、信長が本能寺に寄進したものだそうです。

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唐銅香炉「三足の蛙」、本能寺の変の前夜、突然鳴きはじめて蜀江の錦をかけてようやく鳴き止んだそうです。信長に危険を知らせたといわれています。蜀江の錦とは古代中国の蜀の川の水で染めた精巧な錦です。

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「十六花弁菊型鉄水鉢」 本能寺の変の跡地から発掘され、台座に辻与二郎作と彫られています。辻与次郎は京都三条釜座に住し、千利休の釜師としても知られ、秀吉より「天下一」の称号を与えられました。信長の頃は与二郎と名乗っていました。

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コメント

「火伏せのイチョウ」
天明の大火では水を吹き出し、身を寄せていた人々を救った。
こう言う伝説的な話って面白いですよね。

投稿: munixyu | 2020年2月16日 (日) 10:00

★munixyuさん こんばんは♪
西本願寺のイチョウも火事で水を吹き出してお寺を救ったという言い伝えがあります。実際に水を吹き出すことがあるのかも知れませんね。

投稿: りせ | 2020年2月22日 (土) 01:15

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