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2020年2月20日 (木)

誓願寺 飛鳥時代から現代への歴史

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の矢田寺を出て、寺町京極商店街を下ります。三条通を横切るときに寺町通が少し西にずれるのは、今から訪れる誓願寺の境内がかってここまであったからです。

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「誓願寺」は浄土宗西山深草派の総本山で、創建は古く飛鳥時代までさかのぼります。六角通の東は広場になっていて、その向うに誓願寺があります(TOPの写真)。

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「迷子みちしるべ」 右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってあり、落し物や迷子を捜す方、教える方が、紙に書いて張り出しました。幕末から明治中頃にかけて迷子が深刻な社会問題となり各地の寺社や盛り場に建てられたそうです(1882年建立)。

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誓願寺は飛鳥時代の天智天皇6年(667)に、天皇の勅願により創建されました。もとは奈良にあり、奈良時代(784年)に山城国乙訓郡に移され、平安遷都(794年)以前には相楽郡に移りました。

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平安時代(1175年)浄土宗開祖・法然が当寺で参籠し、21世・蔵俊が帰依したことから浄土宗に改められました。蔵俊は法然に寺を譲り中興の祖とし、それ以来浄土宗念仏門の寺となります。(圓光大師霊場とは法然上人二十五霊場のことです。)

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法然上人の高弟・西山上人証空の弟子円空(1213-1284)が深草に寺を建て布教したことから、現在は浄土宗西山深草派の総本山となっています。西山三派として、他に禅林寺派(永観堂)、光明寺派(光明寺)があります。

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鎌倉時代初期には一条小川(上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、安土桃山時代(1591年)に豊臣秀吉の寺町整備によって現在の三条寺町に移されました。下は三井寺・三千院から大仏師の称号を受けた石彫家・長岡和慶の「南無地蔵大菩薩」。

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誓願寺には、清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿らが帰依したことから、女人往生の寺としても知られています。松の丸殿は、京極高吉と浅井久政の娘の間に生まれ、夫の若狭守武田元明は本能寺の変で明智光秀につき、秀吉らに討たれました。

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兄・京極高次の取り成しで秀吉の側室となります。1600年関ヶ原の戦い後に出家、1615年大坂夏の陣の後、処刑された秀頼の子・国松の遺骸を引き取り、帰依した誓願寺に埋葬しました。

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彼女の墓は誓願寺にありましたが、後に豊国廟の国松の傍に遷されました。「北向地蔵尊」

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「扇塚」 世阿弥の作と伝えられる謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語ります。その中で、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、江戸時代から能楽をはじめ舞踊などの芸能の人々が誓願寺へ参詣しました。

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文化・文政・天保年間に京都で活躍した篠塚流の祖・篠塚文三郎(梅扇)の山村舞は、京阪で大いに流行したそうです。彼ら舞踊家の中に誓願寺の和泉式部信仰があり、芸道上達を祈願して扇子を奉納する習わしが今日まで続いています。

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本尊の阿弥陀如来像は京洛六阿弥陀仏のひとつです。もとは石清水八幡宮の八幡神の本地仏として安置されていましたが、明治初年(1868)の神仏分離令後の廃仏毀釈により誓願寺に遷されました。

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本尊は、平安時代後期の定朝様で鎌倉-南北朝時代の作とされます。本堂では法要が行われていたので写真撮影を遠慮して、内部の写真は過去のもので、下は外に掲示してあるポスターからです。

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創建時の本尊・阿弥陀如来像(火事で焼失)は、天智天皇が夢のお告げにより、当時仏師として名高かった賢問子(けんもんし)・芥子国(けしこく)父子に造立を命じました。二人は別々の部屋で仏の半身を彫り、合体すると寸分違わず合致したといいます。

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父子が制作中の夜、あまりの物音にあやしんだ人が部屋の中を覗くと、賢問子が地蔵菩薩、芥子国が観音菩薩になり、闇の中で光を放ちながら彫っていたそうです。本堂脇壇の「十一面観音菩薩」は弘法大師作とされ、こちらも他の寺から遷されました。

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かって新京極中筋町にあった長金寺は明治初年(1868)に廃寺となり、その一言堂(いちごんどう)の本尊だった菩薩像がこの十一面観音菩薩です。一言観音とも呼ばれ、一言で願いをかなえてくれるそうです。洛陽三十三所観音霊場第二番札所本尊です。

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誓願寺55世の策伝(さくでん、1554-1642)は、文人・茶人で安楽庵流茶道の流祖となりました。また、説教の名手ともいわれ、説教に笑いを取り入れ、話の最後には「落ち」を付けるなど、落語の祖とされます。醒睡笑(八巻)を表しました。

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1623年には誓願寺・竹林院に隠居して茶室「安楽庵」で過ごし、訪れた人々を笑いに包んだといいます。落語家からの扇の奉納も見られ、策伝忌法要では、落語が奉納されるそうです。

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江戸時代中頃には、誓願寺は6500坪もの境内に塔頭寺院が18あり、三重塔もありました。境内には盛り場ができて、「誓願寺さんへ行く」とは、遊びに行くことを意味するほど、洛中一賑わいました。下は中村雁次郎改め坂田藤十郎記念舞扇。

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ところが、幕末の「蛤御門の変」で辺りは焼け野原となり、明治維新で都が東京へ移り京都は沈滞の一途をたどりました。明治5年(1872)京都府参事・槇村正直は、京都の復興のため三条~四条間に新京極通を通し一大歓楽街を作ろうとしました。

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このため誓願寺は、4800余坪の土地を没収されました。また、京都の中心地に位置するため戦乱等により、これまで10回も火災にあいました。そのたびに信者たちによって再建され、現在の鉄筋コンクリートの本堂は昭和39年(1964)に建てられました。

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江戸時代後期、伊藤若冲(1716-1800)は、亡き母の供養と家業の繁栄を祈願して誓願寺に紙本墨画「果蔬(かそ)涅槃図」を寄進しました。中央に釈迦の代わりに二股大根が横たわり、周囲を里芋、南瓜など68種80個の野菜が取り巻いています。

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涅槃図は京都国立博物館に寄託されていて、2016年に超高精細複製画が誓願寺に里帰りしました。先週、特別企画「若冲といのりの美術」が行われ、この複製画や寺所蔵の涅槃会が公開されました。上と下はそのポスターからです。

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コメント

「迷子みちしるべ」
こういうの楽しいですね。

最後の写真はお地蔵さんでしょうか。
呑気な顔が和みます。
小さい春ですね。

投稿: munixyu | 2020年2月20日 (木) 15:07

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