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2020年2月15日 (土)

村井貞勝と本能寺の変

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は本能寺の変に散った村井貞勝の足跡をたどります。村井貞勝は出身は近江とされ生年は不明ですが、早くから織田信長に仕えて信頼を得て、政治・外交面で重用された家臣です。(大雲院所蔵の村井貞勝像)

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弘治2年(1556)に織田信行が兄の信長に叛旗を翻した時には、島田秀満(秀順)と共に土田御前の依頼を受けて、信勝や柴田勝家らとの和平交渉を行いました。

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信長が足利義昭を擁して上洛した際は同行して、明院良政・佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀らの諸将と共に京に残留し、諸政務に当たります。(烏丸丸太町の交差点)

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美濃西部に勢力をもった稲葉良通,安藤守就,氏家直元が織田信長の岐阜攻略に呼応して織田信長に寝返った事件(西美濃三人衆降誘)では人質の受け取り交渉を行いました。(京都御苑、下立売門)

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足利義昭を庇護して、上洛後の義昭の二条御所(義昭御所、旧二条城)の造営にあたりました。ここまでの一連の写真は旧二条城の跡地です。(聖アグネス教会、平安女学院の礼拝堂)

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下は、京都市考古資料館文化財講座、柏田有香「織田信長の遺跡」の資料からの転載で、旧二条城の東は京都御苑の中まで、北は下立売通を含んでいました。

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市営地下鉄烏丸線の建設工事の際に、旧二条城のものと見られる石垣が発見され、現在の二条城の内堀の西に一部が移転・復元されています。不揃いな石を積み上げた急ごしらえの石垣だったことがうかがえます。

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下立売通と室町通の交差点南西に「旧二条城址」の石標があります。

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足利義昭を追放した信長が京都を完全支配下に置いた後の天正元年(1573)7月村井貞勝は、信長より京都所司代(天下所司代)に任ぜられました。

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京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、信長支配体制下において、京都に関する行政の全てを任されました。

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天正3年(1575)4月信長は困窮した公家を救うため、公家の旧領を返還させる徳政令を発し、貞勝は丹羽長秀とともに土地や文書の調査や係争を担当しました。(下は御池通の北の歩道からみた新町通)

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当時信長が宿舎としていた妙覺寺は、上の新町通から東に2ブロックを占めていました。下の衣棚通は後の秀吉によって開かれた通りです。言い換えればこのあたりに妙覺寺の山門があったと思われます。

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同年、信長に官位昇進の勅諚が出されましたが、信長はこれを固辞、代わりに家臣団への叙任を願い出て勅許されましたた。貞勝は朝廷との繋がりも考慮されて正六位下・長門守に叙任されました。(室町通)

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天正4年(1576)信長は足利義昭が使っていたものとは別に新たな二条城を築くことを決め、貞勝に普請を命じました。一昨日の記事にあるように、室町通から2ブロックありました。

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天正7年(1579)以降は、信長は改修した二条殿を退去して、擁立する誠仁親王を住まわせ二条御新造あるいは二条新御所と呼ばれるようになりました。下の両替町通も当時は存在せず、二条御新造の東西の中心にあたります。

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翌天正10年5月、貞勝は朝廷の使者、公家の勧修寺晴豊から「信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたい」という意向を伝えられました。それぞれ、朝廷の官職、公卿、武家の最高位です。(烏丸通に面する国際漫画ミュージアムも二条御新造の跡地です。)

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6月2日本能寺の変が起こり、村井貞勝は本能寺向かいの自邸にいましたが、信長の嫡男・織田信忠の宿所の妙覺寺に駆け込みました。信忠に二条御新造への移動を提言し、そこに立て籠もり明智軍に抗戦しました。(御池通の南から見た室町通、妙覺寺と御新造の境です。)

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信忠は二条御新造の主である東宮誠仁親王と若宮和仁王(後の後陽成天皇)を逃がすため、一時停戦して貞勝が明知軍と交渉にあたりました。明智軍は輿を使うのを禁止しましたが、徒歩での脱出を許可しました。

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脱出したものの街頭で途方に暮れていた親王一家を、町衆の連歌師・里村紹巴が粗末な荷輿を持ってきて内裏に運びました。その後の戦闘で、信忠軍は三度も明智軍を撃退しましたが、力尽きて信忠は自刃、貞勝も討ち死にしました。

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寺町通の四条下ルにある「春長寺(しゅんちょうじ)」は山号を松林山という浄土宗の寺です。村井貞勝が三条京極の邸内に創建したお堂に始まり、後にその菩提を弔うためにこの地に移転しました。

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ちなみに、村井貞勝は本能寺の変の前年、出家して村井春長軒と号し、家督を子の貞成に譲っていました。春長寺の名は貞勝の号に由来します。 叔父の良雲入道が創建した「竹林院」が 市比賣神社の向かいにあります。

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村井貞勝は華々しい武勲はありませんが、信長の天下統一や乱世からの京都の復興に重要な役割を果たしました。明治時代に信長を祀るために創建された建勲神社の拝殿に、信長公三十六功臣の一人として額が掲げられています。

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様々な資料から、貞勝は信長より20歳くらい上の老年と見られ、病気のために政務を2,3日休むことも多かったといわれています。大雲院の肖像画は出家した老人姿の貞勝が描かれています。

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宣教師のルイス・フロイスは貞勝を「都の総督」と呼び、「尊敬できる異教徒の老人であり、甚だ権勢あり」と評しています。スペースの都合十八だけの額が掲げられ、このときは村井貞勝のものはありませんでした。

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上で述べた三職推任は、貞勝から言い出したという説もあります。いずれにしても、交渉の成り行きによって信長の政権構想が明らかになるはずでした。

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また、明智光秀が謀反を起こした理由がこの交渉の内容に関わっていると考える歴史家もあり、本能寺の変の背景の一つであるのは確かなようです。

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コメント

村井貞勝。
あまり知られていない人物ですね。
歴史には隠れた人物たちの、隠れた動きがあって面白いですよね。
その1人1人に焦点を当てると、まだまだ
たくさんの大河ドラマができそうですね。

投稿: munixyu | 2020年2月15日 (土) 13:13

★munixyuさん こんばんは♪
もし信長が生きていて幕府が開かれたら、村井貞勝はもっと注目されていたでしょうね。

投稿: りせ | 2020年2月22日 (土) 01:12

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