満足稲荷神社 境内の修復なる
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
東山仁王門にある満足稲荷神社を訪れました。昨年11月に屋根修理、植樹祭、新しい狛狐誕生の記念祭が行われてから初めてです。上は東大路通にある「二の鳥居」、下は南にある「一の鳥居」でこちらから入ります。
「満足稲荷神社」は、安土桃山時代の文禄年間(1592-1596)、豊臣秀吉が伏見桃山城の守護神として伏見稲荷大社の祭神を勧請したのが始まりとされます。一の鳥居の左にある「神馬像」。
秀吉は、この頃までに後北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げ、甥の秀次に関白職を譲り、自身は太閤(前関白の尊称)と呼ばれました。下は「平成御大典奉祝記念」の石。
ただし、実質的には秀吉が実権を握ったまま、文禄の役(1592-1593)で朝鮮に出兵して当初は連戦連勝の時期でした。(手水舎)
「大祓 人形・ペット形」、名前、年齢、悪いところなどを書いて、手水の水に浮かべます。罪・穢れとともに溶けてなくなるとか。ペット形はゆかりのある徳川綱吉が生類すぺてを大切にしたからだそうです。
秀吉は稲荷大神の加護に大いに「満足」して、それを社名としたといわれています。(手水舎の向かいに「接待所」とされる休憩所があり、灰皿代わりの火鉢が置いてあります。)
江戸時代になり、1693年三代将軍・徳川綱吉により現在地に移され、法皇寺の鎮守社になりました。(一の鳥居からの参道の正面に「舞殿」があらいます。)
明治時代になって法皇寺は南禅寺に吸収され、当社のみが残って現在に至ります。
法皇寺は後に「わらべ地蔵の庭」で知られる牧護庵に吸収されています。(伏見稲荷大社にあるような立派な狛狐です。)
舞殿の左に「岩神さん」が祀られています。
玉垣の中の岩をさすり、悪いところを触ると治るといわれています。左の石碑は社殿跡を示し、大正初期に東大路通が整備されるまでは、当社は広くこのあたりに本殿があったそうです。
岩神さまを守る2体の狛狐はかっては傷だらけで包帯をした痛々しい姿でした。満足稲荷神社では狛狐の修復のための御朱印を配布して半年、昨年(令和元年)新しい狛狐が誕生しました。
上は「こん吉」、下は「つね松」で、昨年11月9、10日にその誕生祭(こんつね祭)が行われました。 狛狐の名前は以前と同じですが、今度は陶器製のようです。
ご神木の「クロガネモチ」 樹齢400年といわれるもちのき科の大樹で、幹が8本に分かれているのが縁起がよいとされています。秋には赤い実をつけるそうです。東大路通からもよく見え、京都市指定保存樹になっています。
「社務所・授与所」、二の鳥居から入ると正面にあります。
絵馬、お守り、お札、おみくじ、御本殿の白狐をモチーフにしたてぬぐい、絵馬が付いた破魔矢、満足狐面、棚の右上に御朱印帳などがあります。
絵馬は何種類かあります。
祭神として倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀り、厄除け、商売繁昌、五穀豊穣の神として崇敬を集めてきました。昨年11月「拝殿」と「本殿」の屋根の修復も完了しました。
江戸時代になり満足稲荷神社が伏見桃山城からこの地域に移されると、神社周辺が繁盛するようになり、地元の人々の信仰を集めたといわれています。
明治の神仏分離令によって、法皇寺が南禅寺境内に移されたとき、当神社は廃絶の危機にありました。地元の人々は、京都府に請願をするなど存続運動を起こしました。
一昨年の台風によって本殿周辺の鎮守の守でも倒木があり、昨年11月には植樹祭も行われました(本殿の右に新しい木があります)。
本殿の右奥に末社が並んでいます。左から大国主社(祭神は大国主神、縁結びの神)、大神宮社(天照大御神、日本の神の始祖)、猿田彦社(猿田彦神、交通安全・土地の守護神)です。
本殿の裏には「狐の通り道」があります。祭神のお使いとしてお狐さんが出入りするといわれています。
現在に至るまで地元の人々に「満足jさん」と親しまれ、歳旦祭、節分祭、初午祭、例祭・神幸祭(5月8日)、火焚祭、大祓式などの年間行事には大勢の人出があり、毎月1日には月次祭を行っています。
上で述べたこん吉・つね松修復のための御朱印帳は品切れ状態が続いたそうです。
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