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2020年1月13日 (月)

明智光秀の足跡をたどる 本能寺の変

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

NHKの大河ドラマにちなんで、明智光秀の足跡をたどっています。前回は織田信長の全国平定が進むにしたがって、軍功が目覚ましく信頼が厚かった明智光秀が近畿一円の支配を任されるところまででした。

下は寺町御池下ルにある本能寺、上はその宝物館に飾られた信長の天下布武の人形(右が秀吉、左が家康)です。ただし、かっての本能寺はここから西2㎞の四条西洞院にあり、後に豊臣秀吉によってここに移されました。

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天正9年(1581)信長が行った「京都御馬揃え」では光秀が総括責任者を務めました。馬揃えは、 本来騎馬を集めて優劣を競い合う行事ですが、この時は大規模な軍事パレードともいえるものでした。「宝物館」

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天正10年5月14日信長は光秀に、安土を訪れる予定の徳川家康の饗応役を務めるようにと指示、光秀は珍物を取り揃え15日より3日間家康ら一行をもてなしました。「信長公廟」、奥にある供養塔の拝殿です。

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ところが、17日に高松城を攻囲中の羽柴秀吉から援軍を要請する手紙が届き、信長は中国に残る勢力を討ち九州まで一気に平定する好機と考え、自ら出陣する決心をします。(下は信長の三男・信孝が建立した供養塔で、信長が所持していた太刀が納められています。)

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そして光秀には援軍の先陣を務めるように命じました。家康のために光秀が用意した料理が異臭を放ち、信長が激怒して光秀を足蹴にして饗応役を解任したというのは後世の創作と考えられています。(隣には、本能寺の変で戦死した信長の側近115名の供養塔もあります。)

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5月29日、信長は安土城を留守居衆と御番衆に託し「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」と命じて、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて上洛、本能寺に入りました。(かっての本能寺跡)

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安土より38点の名器を運ばせ、6月1日前久、晴豊、甘露寺経元などの公卿・僧侶ら40名を招いて本能寺で茶会を開きました。茶事が終わると酒宴となり、妙覺寺より嫡男・信忠が来て久しぶりに酒を飲み交わしました。

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当時の本能寺は周囲から隔絶された東西約140メートル南北約270メートルという広大な敷地に、幅約2~4m深さ約1mの堀、0.8メートルの石垣とその上の土居に囲まれ、防御面にも配慮された城塞のような造りだったそうです。その中心部分には高齢者福祉施設が建っています。

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「妙覺寺」は日蓮宗の京都十六本山の一つで、 信長は上洛の際に妙覺寺を宿舎とすることが多かったようです。上洛した20数回のうち、本能寺を宿舎としたのが3回だけで、18回は妙覺寺だったそうです。*かっての妙覺寺は、南の衣棚(ころものたな)押小路にありました。

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酒宴の後、信忠は宿舎の妙覺寺に戻りました。 このとき信長が上洛した目的は伝わっていませんが、何らかの朝廷への働きかけを行い、6月5日頃に中国方面に出陣する予定だったと考えられています。

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6月1日光秀は丹波亀山城を出陣、亀山の東の柴野に到着して、斎藤利三に命じて午後6時頃には1万3,000人を勢ぞろいさせました。さらに1町半ほど離れた場所で重臣らを集めて軍議を開き、初めて謀反のことを告げます。

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兵士らには真の目的を告げず、桂川を渡り途中で馬を休ませます。一条通の西にある地蔵院(椿寺)には光秀が本陣を張ったと伝えられています。後の秀吉による北野大茶会ではその宿舎となり、謝礼として贈られ椿がありました。

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妙覺寺の信忠は、光秀謀反の報を受けて本能寺に向かおうとしましたが村井貞勝(春長軒)らに制止され、隣の二条の御新造(新御所)に入りました。御池通と室町通の交差点の南側、ここから東に二条御新造がありました。

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春長軒が明智軍と交渉して一時停戦し、二条御新造の東宮誠仁親王と若宮和仁王を内裏へ逃がした後、信忠は軍議を始めました。(室町通りを当たったところに、二条御新造の場所を示す「二条殿御池跡」の石碑があります。)

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脱出して安土へ向かうことを進言する者もありましたが、信忠は「これほどの謀反だから、敵は万一にも我々を逃しはしまい。雑兵の手にかかって死ぬのは、後々までの不名誉、ここで腹を切ろう」と自刃しました。(両替町通の両側が御新造でした。)

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光秀の大軍に攻められ本能寺は炎上、わずかな手勢で奮闘した信長もこれまでと自刃しました。そして、信長の遺骸が見つからなかったことが、明智光秀の天下が長くなかった一因とされます。(両替町通を上がったところに「二条殿址」の石碑があります。)

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しかし、本能寺から遠くない寺町通の阿弥陀寺には次のような顛末が伝わっています。住持の清玉上人は事件を聞きつけ塔頭の僧都20人余りを連れて急いで本能寺に行くと、薮の中で武士たちが信長の遺骸を火葬してから自害しようとしているところに出会います。

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上人はそれを聞くと、「火葬は出家の役で、ここで火葬したあと、遺骨を寺に持ち返り葬礼法事を行なうのでお任せくださ い」といい、兵たちに明智軍に立ち向かうよう促します。その間に信長を火葬して焼骨を取り集めました。

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その後、本能寺の僧が立ち退くのにまぎれて阿弥陀寺に帰って遺骨を隠し、後に寺院の僧たちだけで密かに葬儀を行ない、墓を築いて納骨しました。

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さらに、清玉上人らは本能寺で討ち死にした112人の死骸を引き取り、阿弥陀寺の墓所に葬りました。(右が信長、左が嫡男・信忠の墓標)。

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後に光秀を破った秀吉は、信長の遺骨が葬られている阿弥陀寺で葬儀を行なうことを告げますが、上人はすでに葬儀は済んだとして、秀吉の申し出を辞退、法要料など300石の御朱印も辞退したそうです。(右は森蘭丸・坊丸ら家臣の墓です。)

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秀吉は大変立腹し大徳寺境内で法事をすることになり、天下人となってからは寺町通への移転に際して阿弥陀寺の寺領を大幅に縮小したそうです。(最近メディアで紹介されることが多く、供養の卒塔婆が建てられています。)

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寺は光秀の領地・近江坂本に創建され、後に帰依した信長により京都に移転、正親町天皇も帰依して勅願所と定め上人に東大寺の勧進職を任せました。信長と上人は幼馴染だったという話もあります。墓地にはに清玉上人の墓もあります。

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信長を倒し山崎の戦いで敗れるまでの短い期間ですが、明智光秀は天下人となり、五山や大徳寺に銀を寄進しました。大徳寺は光秀の冥福を祈るため、その銀を用いて方丈の南門を建てました。(南禅寺塔頭・金地院)

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明治になって門は金地院に譲られ、もともとこの位置にあった門(国宝の唐門)は秀吉を祀る豊国神社に移されました。また、上賀茂神社には社領を安堵(保証)する光秀の朱印状(6月7日)が残されています。

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妙心寺には、信長を討った後光秀が訪れ、辞世の句を詠み自決しようとしましたが、叔父の密宗和尚に止められたという話が伝わっているそうです。

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「浴室」(重文) 天正15年(1587)密宗和尚が光秀の追善菩提のために建立、明暦2年(1656)再建され、「明智風呂」と呼ばれています。当初は光秀の法要の時にだけ使用されたそうです。

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コメント

信長、秀吉、家康、光秀。
この辺は、少しのボタンの掛け違いで、
なんとでもなった、不思議な関係ですよね。
光秀は、少し運が悪かっただけなのかもしれません。

投稿: munixyu | 2020年1月13日 (月) 11:27

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