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2020年1月16日 (木)

明智光秀の足跡をたどる 山崎の戦い

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

明智光秀の足跡をたどる3回目は、山崎の戦いから光秀の死までです。その前に徳川家康について。

家康は本能寺の変の報に聞いて取り乱し、松平家ゆかりの知恩院に駆け込んで自刃すると言いだしました。しかし本多忠勝を始めとする家臣たちに説得されて帰国を決意し、木俣守勝らの警護によって伊賀を経由して三河へ帰還しました。

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木俣守勝は金戒光明寺の塔頭・栄摂院を創建し、晩年彦根藩井伊家の家老になり、慶長15年(1610)病に倒れると家康から薬を贈られましたが、静養先の京都で死去、金戒光明寺に葬られました。

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家康の堺から木津川堤藪の渡し、信楽までの道案内役を務めたのが、初代上林(かんばやし)春松の兄・久茂(ひさもち)ら宇治の茶師たちです。上林は今も平等院表参道を店を構えています。

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その後の「伊賀越え」についてはよく知られていますが、家康は上杉家への恩を忘れず、後に宇治代官、茶頭取に任命して、宇治茶業を管轄しました。宇治の「恵心院」は平安時代初期に弘法大師・空海によって開かれ、

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江戸時代には徳川家康の援助で伽藍が整備され、以後徳川家の庇護を受け1676年には現在の本堂が建てられました。上林家は恵心院を支援していて、恵心院と家康との間を取り持ったといわれています。

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本能寺の変の後、光秀は京の治安維持に当たった後、京以東の地盤固めを急ぎました。これは坂本城や織田家の本拠地・安土城の周辺を押さ、柴田勝家への備えを最優先したためと考えられています。

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さらに、有力大名に加勢を呼びかけましたが、縁戚の細川藤孝・忠興父子は「喪に服す」として剃髪、中立の構えを見せ、筒井順慶は応じ配下を山城に派遣しましたが、秘密裏に秀吉側に寝返り大和郡山城で籠城の支度を開始しました。

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こうした状況下で光秀は天正10年6月10日に秀吉接近の報を受けましたが、予想を越える秀吉軍の進軍に態勢を十分に整えられず、2倍から3倍とされる兵力差のまま決戦に臨むことになりました。(このあたりの写真は決戦の場所とされる大山崎JCT付近です。)

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両軍は12日頃から円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣、秀吉軍は前夜に中川・高山ら最前線、池田恒興らが右翼、黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山山裾に沿って布陣し、本陣は後方の宝積寺に置かれました。

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これに対して明智軍は御坊塚の本陣の前面に斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように迎え撃つ構えを取りました。(天王山へのハイキング道)

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当時の山崎(現・大山崎)には沼地が広がっていたため大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、明智軍がその出口に蓋をした形でした。(天王山の中腹にある大山崎山荘美術館)

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一刻後、淀川沿いを北上した池田隊らが円明寺川を渡河し、津田信春を奇襲、丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突きました。これにより明智軍は動揺しやがて総崩れとなりました。(美術館から決戦の地が見渡せませす。)

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秀吉軍も前線部隊の消耗が激しく、日没が迫ったこともあり追撃は散発的なものでした。それ以上に明智軍の士気の低下が著しく、兵の脱走・離散が相次ぎ、700余にまで減衰しながら居城坂本城を目指して落ち延びました。

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上に見える桃山丘陵の向うに小栗栖の藪(山科区)で、明智光秀は土民の落ち武者狩りに遭い、竹槍に刺されて絶命、あるいは逃れたものの力尽きて家臣の介錯により自刃したとも伝えられています。 (醍醐寺の向かいの藪です。)

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光秀の首は翌日には秀吉軍に届き、本能寺、次いで粟田口で晒されたといわれます。一方、三条白川下ルの路地を入ったところに「明智光秀首塚」があり、ちょっと違う話が伝わっています。

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家来の溝尾庄兵衛が光秀の首を落とし妙心寺に納めようとして知恩院の近くまできましたが、夜が明けたためこの地に首を埋めたと伝えられています。(和菓子屋の餅寅さんには光秀饅頭があります。)

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江戸時代中期(1771年)に近所に住んでいてその首塚を守ってきた明田理右衛門からそばの餅寅さんが引き取り、現在まで守っているそうです。

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祠にはいつも花が供えられています。ここは光秀の首が晒されたとされる粟田口でもあり、光秀に敬意を払って少し違う話が伝わっているのかも知れません。

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琵琶湖(北湖)に浮かぶ周囲約600mの小さな花崗岩の多景島(たけしま)は、眺める方向によって多様な景色に見えることからこの名で呼ばれています。ここには山崎の戦ゆかりの碑があります。

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「湖水渡左馬之助秀満一族郎党の霊」 左馬之助とは光秀の娘婿の秀満のことです。秀満は本能寺の変の後、安土城に入って近江一円の掌握に当たっていましたが、山崎の戦いの敗戦を知り大津付近で堀秀政の軍と遭遇して大乱戦となりました。

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数の上で劣勢の秀満は、光秀の妻子ら一族の立籠る坂本城に退却する際に、大津の付近から馬を湖水に乗り入れ渡り切ったとされるのが「明智左馬之助湖水渡」で、その碑が大津にあります。

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堀秀政軍に坂本城を囲まれた秀満は、城に火を放って光秀の妻子とともに自害したとされます。一方で、秀満は僧侶に扮して生き延び、光秀ではなく秀満が後の天海大僧正だという説もあるそうです。

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コメント

戦争は、士気が一番大切なのでしょうね。
後は人徳でしょうか。
秀吉の方が光秀より、人徳があったのでしょう。
疲れ果てているはずの秀吉側が勝ったのは、
そういうことなのかもしれません。

投稿: munixyu | 2020年1月16日 (木) 18:44

★munixyuさん こんばんは♪
大河ドラマではどのような光秀になるのか、本能寺の変の真相は?など興味があります。でも一年間ドラマを見続けるのはしんどいですが。

投稿: りせ | 2020年1月27日 (月) 23:54

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