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2019年11月19日 (火)

鞍馬寺・奥の院から貴船へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

鞍馬寺境内にある奥の院参道の入口を入ると遥拝所があり、横に石段が続いています。ここからの山道は鞍馬山の峠を越えて貴船まで続き、途中に鞍馬寺のいくつかのお堂があります。

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しばらく急な石段を上ったところで、鐘楼への分かれ道があります。この鐘は自由に撞くことができ(お賽銭入れがあります)、遠くからでも鐘の音が聞こえます。ここから平坦な道を行くと「歌碑」があります。

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與謝野晶子(右)「何となく君にまたるるここちして いでし花野の夕月夜かな」、與謝野寛「遮那王が背比べ石を山に見て わがこころなほ明日を待つかな」。牛若丸(源義経)は鞍馬寺に預けられてから遮那王(しゃなおう)の名前を与えられました。

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「霊宝殿(鞍馬山博物館)」 1階は自然科学博物苑展示室、2階は寺宝展観室と與謝野寛・晶子の記念室、3階は仏像奉安室です。鞍馬寺では、博物館だけでなく鞍馬山全体を自然ミュージアムととらえ、あちこちに岩石や植物の説明板があります。

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霊宝殿の前の「冬柏亭」、與謝野晶子の書斎が移築されました。與謝野寛・晶子夫妻は、鞍馬寺が天台宗から分かれて鞍馬弘教の総本山となったときの初代管長・信樂香雲の歌の師でした。右の石段の上にあった門が台風で壊れたようです。

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「息つぎの水」 冬柏亭の横から険しい坂道となります。牛若丸は、天狗に兵法を習うために深夜、独りでこの奥の院参道を急ぎ、途中で息つぎのために湧水を飲んだ場所とされています。

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源義経の父、源氏の棟梁・源義朝は朝廷の争いごとに巻き込まれ、平治の乱(1159年)で平清盛に敗れて無念の最期をとげます。源義朝の一族は都を追われ,、三男の頼朝は伊豆に流されました。「屏風坂の地蔵堂」

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牛若丸の母・常盤御前は平家に捕らえられましたが、幼い3人の兄弟の今若、乙若、牛若は僧侶となることを条件に命を救われました。牛若が鞍馬寺に預けられたのは11歳だったといわれています。昨年の台風による倒木の切株。

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やがて牛若丸は、自分が平家に敗れた源氏の頭領の息子だと知ります。そして、父の無念を晴らすため武術の修行を始めました。昼間の仏道修行が終わったあと、夜に僧坊を抜け出してこの山道を上ったといわれています。(峠に来ました。)

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峠にある「背比べ石」 約10年が過ぎたころ牛若丸は鞍馬寺を出て、金商人・吉次を道案内にして藤原秀衡を頼って奥州平泉に向かいました。その際、名残を惜しんでこの石と背比べをしたと伝えられています。

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峠道を下らずに稜線沿いに行くと「木の根道」になります。この辺りの砂岩が灼熱のマグマの貫入によって硬化したために、根が地下に伸びることができず地表を這っています。牛若丸はこの道で兵法修行をしたといわれています。

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與謝野寛「下に這う鞍馬の山の木の根見よ 耐えたるものはかくのごときぞ」。 この辺りは大杉苑瞑想道場と呼ばれ、鞍馬寺の本尊、護法魔王尊のエネルギーの高い場所といわれていますが、台風による倒木が目立ちます。

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護法魔王尊が降臨した場所に千年杉が立っていて、その跡に「大杉権現社」が建てられました。写真の中央にあったのですが、昨年の台風によって倒壊、まだ片付けられていない状態でした。稜線は風が強かったようです。

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大杉権現社から峠道の貴船側に合流してしばらく下ると、あちこちに倒木があります。一昨年の台風による倒木で一時不通になりましたが、昨年の台風21号による倒木では今年の1月末まで不通でした。

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2年前の大雪でも倒木があり、それらは運び出さずにそのまま朽ちさせるようです。向うに不動堂が見えてきました。

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「不動堂」 ここには、伝教大師最澄が天台宗立教の悲願に燃えて、一刀三礼を尽くし刻んだ不動明王が奉安されています。

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義経が身を寄せた平泉の藤原秀衡は、平家にも匹敵する武力「奥州十万騎」を持っていました。牛若丸の逃亡を知った平清盛は次々と刺客を送りましたが、ことごとく失敗したといわれています。前に小さな祠があります。

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治承4年(1180)兄の源頼朝が挙兵すると、義経は初めて頼朝と対面してその幕下となりました。この時既に、頼朝・義経の従兄弟にあたる源(木曽)義仲が、平家討伐の以仁王の令旨に従って挙兵していました。

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義仲は平氏の大軍を破って入京するも、大軍が都に居座ったことによる治安や食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となりました。義仲は法住寺合戦によって法皇と後鳥羽天皇を幽閉して自ら征東大将軍となりました。

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源頼朝によって派遣された源範頼と義経の軍勢は、粟津の戦いで義仲を討ち破ります。源範頼は義経の異母兄で池田でかくまわれていて、挙兵した頼朝にいち早く駆け付けました。(ここは牛若丸が天狗に兵法を習ったと伝わる「僧正ガ谷」。)

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義経らの軍勢は一ノ谷の戦い、屋島の戦いを経て、元暦2年(1185)、壇ノ浦の合戦で平家を滅亡させました。平宗盛らを連れて京に凱旋した義経ですが、その後頼朝との関係が悪化、討伐命令を受けることになりました。石段の上に「義経堂」。

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義経は再び藤原秀衡の元へ逃れましたが、衣川館で藤原泰衡らの襲撃に合い、文治5年(1189) 自害、享年31歳でした。義経の魂は、懐かしい鞍馬山に戻り安らかに鎮まっていると伝えられ、遮那王尊としてこの義経堂に祀られています。

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しばらく緩やかな下り坂となり、このあたりも木の根道になっています。

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奥の院「魔王殿」は、太古、護法魔王尊が降臨した磐坐(いわくら)、磐境(いわさか)として崇拝さ れてきました。磐坐は神が降臨したあるいは宿った岩、磐境はそのような神をまつる場所(祭祀空間)を指すのだそうです。「拝殿」

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ここでも與謝野夫妻は歌を残しています。寛「木太刀もて岩を斬りたる遮那王の やという声に似る歌無きか」、 晶子「太刀跡の岩 義経が裂きたるや 杜鵑の声が紋を残すや」。 (拝殿から魔王殿が見えます。)

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同様に寺に預けられた二人の兄のその後を。今若は醍醐寺で僧となり全成と名乗り、やがて寺を抜け出し頼朝に合流します。頼朝が亡くなるまで源氏のために働きますが、頼朝の息子と対立し暗殺されました。

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乙若は園城寺で僧になり、義園と名前を変えて頼朝に合流しました。しかし、墨俣川の戦いで戦死してしまいました。 魔王殿からは急な下り坂になります。 

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昔からある恐竜の骨のような倒木、台風でも無事?だったようです。

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鞍馬寺の西門(貴船側の山門)が見えてきました。

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コメント

頼朝と義経の中がもう少しよければ、
歴史はまた、変わっていたかもしれませんね。
結局、今も昔も人間関係なのでしょうね。

投稿: munixyu | 2019年11月19日 (火) 13:37

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