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2019年11月11日 (月)

松尾大社 その歴史と七五三

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は松尾大社に行ってきました。秋色が深まる境内は七五三の親子で賑わっていました。松尾大社の由緒は、最近の研究成果も取り入れ、神社の創建とこの地方の発展の歴史を知ることができます。

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「二の鳥居」 柱どうしを注連縄(しめなわ)で結び、榊の小枝を束ねたものが垂れ下っています。これは、脇勧請(わきかんじょう)とよばれ、鳥居の原始的な形式を示すものだそうです。参道には出店が。

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二の鳥居をくぐった左に松尾祭の舟渡御に使われる駕輿丁船(かよちょうぶね) が置いてあります。

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松尾大社の祭神・大山咋神(おおやまくいのかみ)は、神社の創建以前からこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのが始まりと伝えられています。

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5世紀の頃、朝廷の招きによって渡来人の秦氏の大集団がこの地方に移住してきました。その首長は松尾山の神を一族の総氏神として仰ぎつつ、この地方の開拓に従事して新しい文化をもたらしました。

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秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」の少し上流には大きな堰を設けました。下の「楼門」は江戸時代初期の建立、両側に随神が配置されています。

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桂川下流の所々にも水を堰き止めて水路を引き、両岸の荒野を農耕地へと開墾していきました。大堰は大井川の名の起源となり、水路は一ノ井・二ノ井などと称し、現在も神社の境内を流れています(下の写真)。

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秦氏は、かっては秦の始皇帝の子孫の大陸人といわれていましたが、近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされています。山吹の葉が黄色になり、花が咲いているようにも見えます。

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農業が発展するにしたがい他の産業も興り、絹織物や酒が盛んにつくられるようになりました。境内のあちこちで「亀」が見られますが、その由来については後程。

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酒造は秦一族の特技とされ、後に松尾大社が「日本第一酒造神」と仰がれるまでになります。時代と共に経済力と工業力を得てきた秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として影響力を増していきました。

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奈良時代の政治が行き詰まると長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも、秦氏の勢力によるものが大きかったといわれます。「拝殿」

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向うに見る「招福樽うらない」は、自分で矢を射て吉凶を占います。運は自力で引き寄せるという意味でしょう。左の「おみくじ結び所」は立体ハート型をしていて、最近ではあちこちの神社で見かけます。

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奈良時代の文武天皇の大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を授かり、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移しました。これが松尾社で、現在の松尾大社の始まりです。

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秦氏の女性の知満留女(ちまるめ)が斎女として奉仕し、その子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(東・南とも称した)です。。下は「相生の松」で恋愛成就の御利益があるとか。

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延暦3年(784)桓武天皇は都を長岡京に移すと、松尾社に勅使を派遣してこれを奉告し、秦氏の邸宅に御所を営みました。本殿の前に。おなじみの「重軽石」。

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桓武天皇はまもなく平安京に都を移すと、当社と賀茂神社とを皇城鎮護の社としました。賀茂の厳神、松尾の猛霊と並び称され、ご崇敬はいよいよ厚くなりました。 「幸運の撫で亀」

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その後も朝廷の信仰が厚く、神階は従三位から貞観元年(859)には正一位に、後に勲一等に叙せられました。鎌倉時代に入ると武家たちにも信仰されるようになり、将軍たちからさまざまな奉納・献上がありました。「幸運の双鯉」

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江戸時代には、各地に展開する社領千三百三十三石、嵐山一帯の山林一千余町歩を所有し、奉仕する神職は三十三名、神宮寺の社僧は十余名いたといわれます。境内の端に「伊勢神宮遥拝所」。

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本殿の左手前に摂社が並んでいます。手前は「祖霊社」、松尾大社ゆかりの人々の霊を祀ります。その右の「金刀比羅社」は商売繁盛・交通安全の神・大物主神(おおものぬしのかみ)を祀ります。

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全国に現存する一千三百余の分霊社の多くは江戸時代に創設されました。左の「一挙社」は困難を一挙に解決する一挙神、右の「衣手社」は農耕や産業の神・羽山戸神(はやまとのかみ)を祀ります。

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「本殿」には、大山咋神とともに、福岡宗像大社の三女神の一人の中津島姫命(なかつしまひめのみこと、市杵島姫命)を祀ります。中津島姫命は航海の守護神です。

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この日は七五三の祈祷にくわえて、御大典(ごたいてん、即位の一連の儀式)の奉祝行事として、本殿や未公開重要文化財の特別参拝が行われていました。

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幕末には松尾祭が勅祭となり、明治4年には全国神社中第四位の序列の官幣大社となり、政府が神職の任命や社殿の管理などを行う国の管轄とななりました。

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松尾大社の大神(祭神)が太古、山城丹波の国を拓くため保津川を遡った時、急流は鯉、緩やかな流れは亀の背に乗って進んだと伝えられ、以来亀と鯉は神の使いとして崇められているそうです。社務所の前

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亀は不老長寿、鯉は出世開運の守護の姿を表しているとされます。さらに亀にはもう一つの逸話があり、改元の契機となったのですが、スペースがないので明日の記事で。

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終戦後は、国家管理の廃止により官幣大社の称号がなくなり、同名神社との混同を避けるために昭和25年に「松尾大社」と改称し現在に至ります。

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ところで、七五三は子供の成長を祝って神社・寺などに参詣する行事ですが、江戸時代に関東で始まったそうです。旧暦の11月は収穫の実りを神に感謝する月、15日は鬼が出歩かない日、何事をするにも吉である考えられていました。

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旧暦の11月15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになったのが七五三の始まりだそうです。現在では11月の祝祭日に参詣することが多いようです。

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コメント

寒くなったと思ったら、もう七五三なのですね。
早いものです。
大昔を思い出します。
千歳飴って、意外と美味しいですよね。

投稿: munixyu | 2019年11月11日 (月) 14:58

★munixyuさん こんばんは♪
今でも千歳飴は七五三やお宮参りのお祝いの定番ですね。七五三も千歳飴も関東(江戸)から伝わったものとは知りませんでした。

投稿: りせ | 2019年11月13日 (水) 01:59

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