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2019年11月 2日 (土)

大覚寺 嵯峨天皇と弘法大師

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の北嵯峨散策の最後に訪れたのは大覚寺です。「大覚寺」は、弘法大師空海を宗祖とする真言宗大覚寺派の本山で、正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所とも呼ばれています。下はパンフレットの境内見取り図。

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以下では大覚寺の歴史をたどりながら伽藍を見て歩きます。大覚寺の創建は平安時代初期まで遡ります。延暦13年(794)桓武天皇は新都・平安京に遷都しました。

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桓武天皇ののちに即位した平城天皇は、病身のため在位わずか3年で弟の嵯峨天皇に譲位しましたが、平城上皇の平城古京への復都、薬子の乱などの政変によって政局は乱れていました。「明智門」

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嵯峨天皇は、遷都から15年目の大同4年(809)に即位、律令よりも格式を中心に政治を推し進め、ようやく平安京は安定しました。「玄関門」

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一方で嵯峨天皇は、都の中心より離れた葛野の地(現在の嵯峨野)をこよなく愛し、檀林皇后との成婚の新室である離宮を建立、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院です。左が拝観入口の庫裏「明智陣屋」です。

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「式台玄関」は、江戸時代初めの後水尾天皇の中宮・東福門院(徳川2代将軍秀忠の娘)(1607-1678)の女御御所、長局(ながつぼね)の一部が移築されたといわれています。上の写真の右にも見えます。

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嵯峨天皇は、唐の新しい文化を伝えた入唐求法の僧侶たちに深く帰依、特に弘法大師空海を寵愛しました。弘仁7年(816)には高野山開創の勅許を与え、同14年(823)には東寺も下賜、真言宗が開宗するに至りました。(向うは明智陣屋。)

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「宸殿」(重文)東福門院和子の女御御殿の宸殿として使用され、後に明正天皇の仮御御所になり、その後江戸時代の17世紀後半に移築されたといわれます。旧御所の名残で、前庭には左近の梅、右近の橘が配置されています。

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弘仁9年(818)の大飢饉に際して嵯峨天皇は、弘法大師の勧めにより一字三礼の誠を尽くして般若心経を浄書、その間に檀林皇后は薬師三尊像を金泥で浄書しました。

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弘法大師は嵯峨院持仏堂五覚院で五大明王に祈願しました。このときの宸筆・般若心経は、60年に一度しか開封できない勅封心経として現在も大覚寺心経殿に奉安されています。(宸殿の各間には、狩野山楽筆の牡丹図・紅白梅図(重文)などがあります。)

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貞観18年(876)嵯峨上皇の長女で淳和天皇の皇后であった正子内親王が、嵯峨院を改めて大覚寺を創建、淳和天皇第2皇子の恒寂入道親王を開山としました。(「正寝殿(しょうしんでん)」(重文)に渡ります。)

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正寝殿は書院造りの客殿で12の部屋があり、宸殿との間は苔庭です。下は向かいに見える宸殿の北の間。

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「上段の間」は後宇多法皇が院政を執った部屋で、執務の際は冠を傍らに置いたことから、「御冠(おかんむり)の間」とも呼ばれています。南北朝の媾和会議がここで行われたそうです。

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その後、延喜年間(901-923)になると、宇多法皇がしばしば行幸して詞宴を催しました。しかし、恒寂入道親王の後、3代定昭より20代良信までの約290年間、興福寺一乗院の兼帯が続きました。(回廊沿いの正宸殿の部屋)

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各伽藍を結ぶ回廊は、柱をにわか雨に、直角に折れ曲がる回廊を稲光にたとえて「村雨の廊下」と呼ばれます。床は鴬張りで、低い天井は刀や槍を振り回せないようにするためとか。最初に、右に見える霊明殿に向かいます。

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一乗院による兼帯後、文永5年(1268)、後嵯峨上皇が落飾して素覚と号し第21代門跡となりました。また、後宇多天皇が徳治2年(1307)に出家し法皇となり、法名を金剛性と号し大覚寺に住して第23代門跡となりました。

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この時、皇位が皇統や所領の継承をめぐって2分され、亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住したことにより大覚寺統(南朝)と称しました。(西の池泉庭園の向こうに「庭湖館」「秩父宮御殿」があります。)

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「霊明殿」は綺麗な朱塗の建物で江戸時代末期の建立。1958年に東京の寺から移築したそうです。ここには、嵯峨御流関係者の位牌が安置されています。

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後宇多法皇は大覚寺の再興に尽力、次々と伽藍の造営に努めたので「大覚寺殿」と称され大覚寺のご中興とされます。しかし、第24代性円門跡の時代の延元元年(建武3年、1336)火を発してほとんどの堂舎を失ってしまいました。

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元中9年(明徳3年、1392)には南北朝媾和が大覚寺正寝殿で行なわれ、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って大覚寺に入りました。(ちょっとした床緑です。)

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しかし、南北朝の和議の条件が果たされなかったため、応栄17年(1410)後亀山上皇の吉野出奔以後、南朝の再興運動が起こり、大覚寺もこの運動に深く関わっていきました。

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戦国時代に入り、応仁の乱(1468)によりほとんどの堂宇を焼失。天文3年(1534)からは東山の安井門跡蓮華光院を兼帯しますが、天文5年(1536)にも木沢長政勢により放火されました。(庭には放水銃が設置されています。)

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回廊を戻り、東にある「御影堂」は大正14年の建造。大正天皇の即位に際して建てられた饗宴殿を、式後に賜って移築したもの。前庭は白川砂により大海を表し、中央に舞楽台、奥に勅使門が見えます。

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左の御影堂には、嵯峨天皇、秘鍵大師(弘法大師)、後宇多法皇、恒寂入道親王など大覚寺の歴史に大きな役割を果たされた人々の尊像を安置しています。撮影禁止になっていました。正面は「安井堂」。

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「安井堂」は、江戸時代中期建立の安井門跡蓮華光院の御影堂が、近代、1871年に移築されたものです。僧形の後水尾天皇の像が安置されています。安井堂から御影堂。

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「五大堂」 江戸時代中期の天明年間に創建され、現在の大覚寺の本堂です。不動明王を中心とする五大明王を祀っています。

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天正17年(1589)空性を門跡に迎えた後、衰退した大覚寺の再建にとりかかり、寛永年間(1624~44)にはほぼ寺観が整えられました。正面には大沢池に面する吹き抜けの広縁「観月台」があります(最後の写真)。

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最後の宮門跡は江戸時代後期・天保8年(1837)の有栖川宮慈性入道親王です。大正13年(1924)龍池密雄門跡が心経殿を再建。大正天皇即位式の饗宴殿を移築し御影堂(心経前殿)としました。「霊宝館」

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「勅封心経殿(ちょくふうしんぎょうでん)」 大正14年に法隆寺の夢殿を模して再建されたもので、嵯峨天皇をはじめ、後光厳、後花園、後奈良、正親町、光格天皇の勅封心経を納め、薬師如来像が祀られています。

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最後に、今月に行われている行事を。秋季名宝展「皇室と大覚寺」10月1日(火)~12月2日(月)、特別公開「秩父宮御殿・庭湖館」11月1日(金)~11月10日(日)、

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秋を彩る大覚寺の風物詩「嵯峨菊展」11月1日(金)~11月30日(土)、大覚寺大沢池ライトアップ「真紅の水鏡」11月8日(金)~12月1日(日)

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コメント

天井が低いと刀を振れない。
そういう意味では、現代の建物は
武士泣かせな建物といえるのかもしれません。

投稿: munixyu | 2019年11月 2日 (土) 12:22

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