谷ヶ堂 延朗上人と最福寺
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松尾大社から山沿いの道を南に行くと「谷ヶ堂 最福寺開山 延朗上人旧跡地」という石標が立っています。ここは歴史上重要な場所でしたが、立ち止まる人は多くありません。
奈良時代末期この地に「松尾山寺」がありましたが、平安時代の1159年「平治の乱」により焼失しました。院の近臣らを巻き込んだ戦いで、平清盛が源義朝に勝利、幼い頼朝が助命されたことで知られます。下の石碑には「松尾より京へ二里」。
お堂の横の手水鉢?に「松尾山寺、尊鏡大法師像安置」とあります。『続日本紀』の延暦元年(782)の項に「松尾山寺尊鏡 生年百一歳 詣入内裏 叙位大法師 優高年也」とあり、奈良時代末期に101歳で大法師となったと記されている長寿の僧です。
松尾山麓の神宮寺に住していた延朗(えんろう)は、平安時代後期の1176年この地に天台宗寺門派の最福寺を建立しました。七堂伽藍と49院の塔頭が建ち並び、塔は五重塔だったといわれます。(石碑を歴史順に並び替えています。)
延朗(1130-1208)は、但馬に生まれ幼くして父母を喪い15歳で出家しました。伝承では八幡太郎源義家4世の孫ともいわれます。平治の乱では源氏のため平清盛に追われて、陸奥松島に逃れました。
上の写真の左前の石碑には「延朗上人八百年大遠忌記念」とあり、その記念として向うの「さしのべ観音」が建立されました。
義経が丹波国亀岡篠村を寺領として最福寺へ寄進した際には、延朗は村人に免租や富民の善政を施し、悪病難病の治療のために寺に浴室を造り、自ら病人を治療したといいます。
延朗は、多くの民衆の救済に献身したので、人々は「松尾の上人」と呼び尊敬を集めたとわれます。上の石碑は「ひたすらに おすがり申す 延朗さん」。下は、大遠忌記念の「六地蔵」。
最福寺は、西芳寺川の谷口の谷郷(たにごう)に位置していたことから、「谷堂」ともよばれました。鎌倉時代になり、延朗の没後も伽藍は次第に整備され、源頼朝(1147-1199)も寺領を寄進したといわれます。
鎌倉時代前期の1219-1222年、延朗の弟子・慶政は、最福寺の南隣の丘陵に法華山寺を建立し、「峰堂」とも呼ばれました。関白・九条道家は寺領を寄進して大伽藍となり、最福寺と法華山寺は、西山屈指の大寺になりました。新たに「仏足石」が置かれていました。
鎌倉時代末に後醍醐天皇の勢力を中心とした鎌倉幕府討幕の「元弘の乱」(1331-1333年)が起こります。『太平記』によると、隠岐を脱した後醍醐天皇の命を受けた千種忠顕が、聖護院静尊法親王を立て、西山峰堂に入り布陣しました。
20万騎の軍勢が峰堂周辺に陣取り、忠顕は幕府方の六波羅を攻めるも敗退、幕府方の反撃により峰堂の本陣を捨て丹波に逃れました。その際、谷堂と峰堂は火を放たれ破却されました。その後しばらくして、二つの寺は再建されたといわれます。
南北朝時代になると、「明徳の乱」(1391年)など数度、この地に双方の軍勢が集結して戦いが起こりました。そして、「応仁の乱」(1467-1477)では、東軍・山名右馬助らが最福寺に布陣しましたが、西軍・畠山義就に攻められ、最福寺は法華山寺とともに焼失しました。
戦国時代末の1571年、織田信長が比叡山を焼討した「元亀の乱」でも両寺は焼失、その後再興されることはありませんでした。谷ヶ堂から脇に入った場所は旧境内と思われ、最福寺の遺物と思われる瓦や石材が残されています。
旧最福寺本尊の「阿弥陀像」は嵯峨・正定院に遷されました。車折神社の近くにある浄土宗の寺です。(斜面の上にもう一つの道があり、公園になっています。)
現在この地には谷ヶ堂(延朗堂)の一堂だけが残され、開山の「延朗上人坐像」が安置されています。近くにある西光寺が管理しているそうです。(斜面の上の公園は整備されてきて、ベンチや様々な花が植えられています。)
谷ヶ堂は洛西観音霊場番外札所で御朱印(押印、揮毫、祈願済)もあります。毎月12日の延朗上人の月命日の午後1時から谷ヶ堂が開帳され、延朗上人坐像を拝むことができます。また、月末には写経会、写仏会が催されます。
毎年2月11日の夕方には、「延朗上人、さしのべ観音 竹とうろう祭」が行われ、上人の供養の後、願い事を書いた六百本以上の青竹燈篭が並び、さしのべ観音のライトアップ、演奏会や甘酒の接待があります。翌日の命日には青竹燈篭の焚き上げ供養があります。
最福寺が廃絶してから400年以上たちますが、開山の延朗上人は今なお人々に敬愛されています。大きな石碑には「平治・元弘・応仁・元亀の乱 戦火ゆかりの地」とあります。
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コメント
平治の乱の爪痕のようなものが、
未だに残っているというのは、凄いことですよね。
あの時、頼朝を殺していれば・・・。
歴史の浪漫ですね。
投稿: munixyu | 2019年11月14日 (木) 19:08
★munixyuさん こんばんは♪
平清盛の温情だったのでしょうか? まさか頼朝に平家が滅ぼされるなんて思いもしなかったのでしょうね。
投稿: りせ | 2019年11月21日 (木) 00:49