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2019年11月15日 (金)

地蔵院 細川頼之と竹の寺

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の谷ヶ堂から地蔵院まで来ました。途中で鈴虫寺にも寄ったのですが、時間がなかったので拝観はしていません。こちらの「地蔵院」は山号を衣笠山(きぬがささん)という臨済宗の単立寺院で「竹の寺」ともよばれます。

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鎌倉時代、この地には衣笠内大臣といわれた歌人の藤原家良(いえよし、1192~1264)が山荘を営んでいました。「総門」をくぐると、境内は背の高い竹で覆われていて、市の文化財環境保全地区でもあります。

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南北朝時代の貞治6年(1367)室町幕府管領・細川頼之が宗鏡(そうきょう)禅師を招いてこの地に臨済禅の「地蔵院」を建立しました。管領(かんれい)は将軍を補佐する役職で、当時は細川、斯波(しば)、畠山の三家だけが任じられ、三管領とよばれました。

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宗鏡禅師は恩師の夢窓疎石を開山として、自らは第2世を名乗りました。細川頼之は南北朝から室町幕府初期の武将で、政治家としても重要な貢献をし、波乱万丈の生涯を送りました。「細川頼之公の碑」、剃髪した際に残した七言絶句が刻まれています。

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細川頼之は、三河に生まれ、足利尊氏に従う父のもとで、阿波に派遣され南朝と戦いました。正平7年/観応5年(1352)南朝の京都侵攻で父が戦死すると、頼之は上京して男山合戦で南軍を駆逐しました。

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その後、頼之は中国地方へ向かい数カ国を統轄して南朝に対抗しました。その頃、中央では将軍足利尊氏が死去し、義詮(よしあきら)が2代将軍となり、頼之の従兄の細川清氏が執事に任命されます。「本堂」

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将軍の補佐職は管領以前は「執事」とよばれていました。しかし、清氏は南朝側に寝返ってしまいました。頼之は将軍義詮から清氏討伐を命じられ、清氏は白峰城の戦いで戦死しました。

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中国地方が安定すると、頼之は讃岐・土佐の守護を兼ねて四国管領に任じられ、河野通朝を追討して四国を平定しました。本堂には、本尊として伝教大師作といわれる延命安産の地蔵菩薩が安置されています。

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幕府の管領となっていた斯波義将とその父・斯波高経が「貞治の変」で失脚すると、頼之は幕府に召還され、正平22年/貞治6年(1367)に管領に就任しましたが、その直後に義詮は死去します。地蔵院を建立したのがこの年です。

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管領となった頼之は、11歳で3代将軍となった義満を補佐し、官位の昇進や室町殿(花の御所)の造営など、将軍権威の確立に貢献しました。本堂の右奥に鎮守社の「開福稲荷大明神」があります。

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また、倹約令など法令の制定、公家や寺社の荘園を保護する半済令の施行、南朝との和睦などを行いました。(地蔵院は苔が美しいことでも知られます。)

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頼之の施政は、政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、義詮の正室・渋川幸子や寺院勢力の介入、南朝の反抗などで難航します。(昨年の台風による倒木で、このあたりの竹が被害を受けたそうです。)

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また、今川了俊の九州制圧も長期化していました。(中門から中は撮影禁止の場合が多いのですが、この日は「モシュ印/コケ寺リウム」が開催中で撮影可能でした。モシュ印は御朱印の文字を苔(moss)で描いたものです。)

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天授5年/康暦元年(1379)細川氏が紀伊の南朝征討に失敗したのを契機に、諸将は頼之の罷免を求めて京都へ兵を進め将軍邸を包囲しました(康暦の政変)。「開運弁財天」

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この政変によって頼之は義満から退去命令を受けて領国の四国へ下り、途中で出家しました。庭園の入口

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後任の管領には斯波義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ一部の政策は覆されました。斯波派は頼之の討伐を訴えましたが、義満が抑えたそうです。「玄関」

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頼之の弟・細川頼元が幕府に働きかけ、ようやく赦免が認められました。そして、元中8年/明徳2年(1391)には義満と対立した斯波義将が管領を辞任すると、頼之は義満からの命令を受けて上洛しました。右の方丈に上がります。

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義満は頼之の管領復帰を望みましたが、頼之は既に出家の身であるとしてこれを辞退し、代わりに養子の頼元を推薦してその補佐をしました。「方丈」(市登録有形文化財)は、江戸時代前期の貞享3年(1686)の再建。

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方丈には細川護煕元首相が描いた襖絵があります。方丈の前庭は、宗鏡禅師が作庭した頼之遺愛の平庭式枯山水庭園です。十六羅漢の庭とも呼ばれ京都市の登録名勝に指定されています。

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「コケ寺リウム」は「苔テラリウム(コケリウム)」をもじり、密閉したガラス容器の中に有名寺院の建物と苔庭をジオラマ表現したものです。ハートの窓の向こうは裏庭。

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間接的ながら幕政に復帰した頼之でしたが、翌年(1392)になって風邪が重篤となり死去してしまいました(享年64)。葬儀は義満が主催して相国寺で行われたそうです。

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地蔵院は、北朝系の三天皇の勅願寺となり、室町幕府からは京都五山に匹敵する特権を与えられ、諸侯から多くの寺領が寄進され、隆盛を極めました。もう一度本堂の前まで戻ります。

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地蔵院は境内地17万㎡、末寺26ヵ寺、諸国に領地54ヵ所を持つ一大禅寺となりました。下は本堂の左手の奥にある宗鏡禅師の墓、自然石です。

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手前は細川頼之の墓(細川石)、遺言によって帰依した宗鏡禅師の墓の横に葬られています。二つの墓の右横に2017年に作成された「 一休禅師母子像」があります。

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一休さんこと一休宗純禅師は応永元年(1394)後小松天皇の落胤(第一皇子)として生まれました。1392年に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、北朝に合一されてまもない頃です。

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しかし帝の御子懐妊を妬む人々の讒言によって母は御所を追われ、細川頼之の妻の縁をたよりに、地蔵院近くの民家で皇子を出産、皇子は当院内で養育されました。その後、皇子が6歳で得度して安国寺に入るまで、母子は地蔵院で過ごしました。

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地蔵院は、応仁の乱(1467~1477)によりすべての堂舎が焼失、さらに復興後に天正13年の大地震(1585)で大きな打撃を受けました。しかしながら、細川家の援助もあり江戸時代中頃には復興しました。

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