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2019年10月 8日 (火)

水火天満宮 夕暮れの境内

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

堀川通と寺之内通周辺の散策の最後に訪れたのは水火天満宮です。上は天神公園にある鳥居、下は堀川通に面する鳥居でこちらが表口のようです。

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「水火(すいか)天満宮」は、平安時代の923年醍醐天皇の勅願により、都の水害・火災を鎮めるために、延暦寺の法性坊尊意僧正によって菅原道真の神霊を勧請したのが始まりです。

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尊意僧正は天台座主で道真の師でもあり、当初は西陣下り松の地の僧正の別邸に祀られました。僧正が下山の際に滞在し、道真と会見したゆかりの場所でした。(鳥居の横にちょっとした庭があります。)

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菅原道真(845-903)は、学者の家系に生まれ右大臣にまで昇りつめた公卿・歌人です。しかし、反感を抱く左大臣・藤原時平らの画策によって、醍醐天皇は道真を大宰府へ左遷し、道真は失意の中で亡くなりました。

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道真の4人の子供らもそれぞれ流刑になりました。

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道真の死後、都には大雨、鴨川の氾濫、落雷や火災、疫病などの災害や異変が相次ぎました。清涼殿に落雷があり、多くの死傷者が出て、左遷に動いた藤原菅根が変死、藤原時平も急逝、天皇家にも不幸が続きました。

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下は「出世石」で、大願成就、出世する神石として信仰されているそうです。

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「登天石」 醍醐天皇から祈祷の勅命を受けた尊意が急ぎ山を下りて宮中へ向かう途中、鴨川が突如増水し町へと流れ込みました。しかし尊意が手にした数珠をひともみして、天に向かい神剣をかざして祈ると、たちまち水位が下り、真っ二つ分かれた水流の間から一つの石が現れました。

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その上に道真の神霊が現れ、やがて昇天し雲の中へ消え、雷雨も止みました。その石を持ち帰り供養して、登天石と名付けたといわれます。この石に祈ると、「迷子が無事に戻る」とされています。後ろは「菅公 影向松」、影向(ようごう)とは、神仏が一時姿を現すことで、松に降りることが多く各地にあります。この松は、数代目の松だそうです。

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「金龍水」 鎮座以来、どんな旱(ひでり)の際も渇水や濁ることなく水質良好の清水(井戸水)だったそうです。「眼疾を煩う人、この清水の奇篤によって平癒した人多くあり」という銘がある都名水の一つです。

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都の人々は道真の祟りと恐れ、没後20年目に朝廷は道真の左遷を撤回して正二位を贈り、子供らの流罪も解きました。この年、後醍醐天皇から「水火の社天満自在天神宮」という神号を授かり創建されたのがこの神社です。「拝殿」

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「本殿」には菅原道真を祀り、水難・火難・災禍除け、合格祈願、旅行安全などの信仰があります。本殿・拝殿の前から右手に摂社が並んでいます。

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「六玉稲荷大明神社」 六玉稲荷大明神、玉光稲荷大明神と生島稲荷大明神を合祀し、開運除災・就職祈願 ・ 人材確保 ・ 商売繁盛のご利益があるとか。六玉稲荷は、東本願寺・枳毅邸にあったものが、明治以前に移され、西陣の地廻守護神となったとされます。

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「秋葉大神社」 祭神の秋葉大神は火伏せ、火難除けの神様です。

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「白太夫社」 道真の2人の兄は早く亡くなり、父は伊勢神宮宮司・渡会春彦に祈願をしてもらい道真が生まれました。その後渡会は道真に仕え大宰府で最期をみとりました。そのため、天満宮には摂社として祀られていることが多く、子授けのご利益があるそうです。白太夫とは渡会が若くして白髪だったからです。

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「弁才天社」 弁才天はは芸能の神様ですが、婦人病にも御利益があるとされています。合わせて祀られている金玉龍王は雨請、福寿稲荷大明神は商売繁盛の神です。

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「玉子神石」 もともと道真の愛石で、家族の出産の際に玉子石に安産を祈願したと伝わります。妊娠5ヵ月目以後にこの石に祈ると御利益があるといわれています。また、この石に祈願を込めると、良き子宝を得るともいわれています。

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ところで、道真が左遷された原因は時平の諫言と書きましたが、異説もあります。当時は藤原氏による摂関政治が全盛の時代で、宇多天皇が即位したとき、藤原基経に再び関白を務めるよう勅書を送りました。

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先例により一度目を辞退した基経は、左大弁橘広相が起草した2度目の勅書に「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言があり、文書博士が「阿衡は地位は高いが職務を持たない」と説明したことに立腹しました。(南と東の鳥居の横に古い道標があります。)

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基経は、政務を拒んで自邸に引き籠もり半年以上国政が滞りました(阿衡事件)。宇多天皇は折れて勅書を取り消し広相を罷免しましたが、なおも広相の処罰を求める基経を、政務に復帰するようになだめたたのが菅原道真でした。

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その後、死去した基経の若い長男・時平と道真は同様に昇進して太政官のトップになります。宇多天皇は道真を重用するよう強く求めて醍醐天皇に譲位。醍醐天皇のもとで二人は左右大臣に昇り、道真は結果的に藤原氏をけん制する役割を演じることになりました。

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おおざっぱな時平の意見を、道真がことごとく正すという状態が続きました。道真の中央集権的な土地改革に藤原氏が反発した、道真の異例の出世に反感を抱く貴族が多かったともいわれています。醍醐天皇は時平に肩入れし、道真は宇多上皇に何度も相談するなど、天皇と上皇の間に確執が生まれました。

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このような状況の中で、前途を危惧して政務から退くように勧める貴族もありましたが、結果的に道真は出過ぎた杭となってしまったという歴史家もいます。

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コメント

菅原道真は、頭は良かったのに、
運が悪かったのですね。
野心家でなかったのでしょうね。
失意の中で亡くなったということですが、
それは良かったのかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2019年10月 8日 (火) 12:28

★munixyuさん こんばんは♪
左遷されてもしぶとく辛坊していれば、和気清麻呂や西郷隆盛のように復活できたかも知れません。その点、道真はもろいところがあったのでしょうね。その純心さが後に神となる要因かも。

投稿: りせ | 2019年10月19日 (土) 00:02

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