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2019年10月 3日 (木)

鳴虎・報恩寺 その歴史と境内 

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の本法寺から小川通を南に行き、寺之内通下ルに報恩寺の大きな石標があります。かなり奥に山門(東門)があり、かって山門の前には「小川(こかわ)」が流れていていました。

「報恩寺」は山号を堯天山という浄土宗知恩院派の寺院です。

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門前の石橋は秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長7年(1602)の銘があります。このあたりの小川通は本法寺の門前から東にずれていますが、小川跡の位置は同一線上にあります。

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山門を入って左に鐘楼があります。「梵鐘」(重文)は、室町時代の応仁の乱(1467-1477)の東軍・畠山持国や秀吉が陣鐘に用いたといわれ。余韻が残る美しい音色だそうです。

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この鐘には悲しい伝承があります。近くの古い織屋に15歳の丁稚と13歳の織女(おへこ)が働いていました。二人は日頃から仲が悪く、ある日報恩寺の夕刻の鐘の数をめぐり口論になりました。(鐘楼の入口は墓地にあります。)

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織女は9、丁稚は8といい、負けた者は何でもすると約束しました。丁稚は店を抜け、知り合いの寺男に8つ撞くことを頼みます。負けた織女は悔しさから鐘楼に帯をかけ首を吊ったといわれます。

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織女の怨霊が鐘を撞いたので、店の主人は織女を供養し菩提を弔いました。以後、寺では板塀を建て誰も鐘を撞けないようにして、「撞くなの鐘」と呼ばれました(現在では除夜の鐘を撞くことができます)。

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報恩寺の創建については、異なる内容の資料が存在して確かではないとされてきました。しかし、最近ではそれらの矛盾の原因となったいくつかの資料の誤りが指摘され、その創建の経緯が明らかになってきました。「地蔵堂」

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報恩寺の前身は室町時代中期まで一条高倉付近にあった八宗兼学の寺院でした。(地蔵堂には立派な地蔵菩薩が安置されていました。)

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報恩寺は、明応3年(1494)に慶誉明泉(?-1521)が前身寺院の再興という形で開創、浄土宗寺院となりました。開山の慶誉は西蓮社慶誉明泉と号し、姓氏・生国はともに不明です。 「政長稲荷社」

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後柏原天皇と後奈良天皇は浄土信仰が篤く、開創まもない報恩寺は朝廷の帰依を受け、文亀元年(1501)に仏舎利、文亀2年(1502)に寺額を賜わりました。(政長は黒田政長のことですがその由縁は後程。)

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文亀元年には後柏原天皇から香衣を許されました。文字通り香染めの僧衣で、これを着用するには勅許が必要でした。ここからが境内のようで、石柱には「下馬」と刻まれています。

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後柏原天皇は知恩院宛の宸簡で、40歳未満の香衣の勅許は稀であるが、30歳そこそこに勅許した先例があるので、子細ある事から報恩寺に勅許したと述べています。「賓頭盧頗羅堕闍尊者」

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上の宸簡から、報恩寺が知恩院の末寺で、知恩院の香衣執奏権を利用したこと、当時の慶誉が30代だったことが分かるそうです。客殿の「玄関」

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玄関の前にいらっしゃったご住職によると、修理のために屋根に上ったら鬼瓦が珍しい蛇だったそうです。すると棟瓦は蛇の胴体あるいは波を表しているかも知れないとのことです。

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報恩寺は豊臣秀吉の都市改造によって、天正13年(1585)までに現在地に移転しました。玄関の横に金剛力士像が安置されています。下は「密迹(みっしゃ)金剛」、その下は「那羅延(ならえん)金剛」 。

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これらは室町時代初期作といい、かっては山門に安置されていましたが、享保の大火(西陣焼け、1730)に山門が焼失、墓の中央に立っていたことから、「墓飛びの仁王尊」と呼ばれているそうです。

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天明の大火(1788)により堂宇を焼失、1818年に客殿、玄関、内玄関が再建されましたが、本堂は再建されないまま現在に至ります。客殿は黒田政長が最期を迎えた場所として知られています。

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「黒田長政」(1568-1623)は、黒田官兵衛の長男で、豊臣秀吉と徳川家に仕えた武将です。1623年徳川秀忠、家光が参内のために上洛した際、長政は報恩寺に宿泊しましたが、持病発作のため客殿で亡くなりました。

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客殿には鎌倉時代の快慶作「阿弥陀三尊像」、北宋の「木造釈迦如来諸尊仏龕(ぶつがん)」、鎌倉時代の「木造千体地蔵菩薩像 木造大黒天像」、南北朝時代の「木造阿弥陀如来、両脇侍立像」などを安置、いずれも重要文化財です。

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境内の西に行くと「五輪塔」があり、秀吉の侍尼・仁舜尼(仁叔周孝尼)の墓碑といわれます。

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「中門」、この向うに客殿(方丈)の庭があります。

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境内の西に報恩寺に帰依した後西天皇の第7皇女・賀陽宮(1666-1675)の墓があります。母は清閑寺共子ですが若くして亡くなり、戒名は「桂徳院宮」、この区域は宮内庁の管轄です。

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ところで、後柏原天皇から創建間もない報恩寺に中国の山岳地帯で虎が谷川の水を飲む姿を描いた「掛け軸」が贈られました。後に秀吉が気に入って聚楽第に持ち帰ったところ、夜になると虎が吠え歩き回わったといわれます。

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秀吉は眠れずに翌朝に返したといわれ、以来掛け軸は「鳴虎図(なきとらず)」、寺は「鳴虎」と称されたといわれます。下は過去の京の冬の旅のガイドブックから。

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境内の南西には唯一残された塔頭「永寿院」があります。

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コメント

残念な首吊りだったのですね。
死ななくてもよかっただろうに。
可哀そうというか、情けないというか。
一番可哀そうなのは鐘でしょうね。

投稿: munixyu | 2019年10月 4日 (金) 17:37

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