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2019年10月12日 (土)

南禅寺 境内の塔頭を訪ねて

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

天授庵を出て、境内にある他の塔頭を訪ね歩きました。境内の南東、水路閣がトンネルに入る手前に「高徳庵」があります。ここは、昨日の記事に出て来た駒大僧正(道智)が隠棲した場所で、道智の院号・最勝院が寺の院号にもなっています。上の写真の石碑には最勝院・駒ヶ滝とあります。

下の写真の水路閣の向こうの「南禅院」は亀山上皇の離宮跡で南禅寺発祥の地とされ、塔頭ではなく南禅寺の別院です。

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水路閣を出て、本坊前の参道を下ります。ここには昨日の天授庵がありますが、その手前に

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「正因(しょういん)庵」 南北朝時代の至徳年間(1384-1386)に南禅寺49世・徳叟周佐(とくそうしゅうさ、1324-1400)が隠棲。徳叟は常陸に生まれ、夢窓疎石に師事、等持寺、鎌倉・瑞泉寺、天竜寺の住持となりました。

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相国寺建立を援助、1393年に南禅寺火災後に再任、復興に努めました。没後に正因庵は徳叟の塔所となりました。諡号は宗猷達悟禅師。(下は北の参道から)

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隣の天授庵との間に「今尾景年(けいねん)翁之墓」という石標があります(墓は天授庵の墓地にあります)。今尾景年(1845-1924)は、明治から大正にかけて活躍した四条派の日本画家です。

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色彩豊かな花鳥画を得意として、「綺麗濃褥」と評されました。明治28年(1895)に焼失して、同42年に再建された法堂の雲龍図の制作を依頼されました。

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景年は「形だけの龍ではしかたがない。全霊をあげて真の龍を描きたい」と、巨大な筆と硯を使って制作に取りかかり,60日ほどで完成しました。円内に描かれた龍は直径10mもある大きなものでした。絵葉書の写真です。

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南禅僧堂の前に顕彰碑があり、碑文の最後に南岳藤澤恒撰と刻まれています。藤澤南岳は江戸から明治にかけて活躍した儒学者で、恒は本名、通天閣や寒霞渓の命名者でもあります。

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南の参道をさらに下り、中門の前から左(南)に行くと、

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「真乗院」 室町時代の1450年、南禅寺第139世・香林宗簡(こうりんそうかん)がこの地に庵を創建しました。武将・山名宗全が深草郷を寄進、師・月庵宗光より深草の末寺・栄松寺、大圓庵とその所領も譲られてました。


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1453年に香林が亡くなると、後花園天皇は真乗院の創建を許可し、香林の塔所となりました。その後は、華屋宗厳(1428-1486)が継ぎ、応仁の乱(1467-1477)後、現在地に再建されました。山名宗全の墓があります。

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真乗院の前からインクラインの方に行く道沿いに「金地院」、「南陽院」、「大寧軒」があります。こちらには立ち寄らず、北の参道の方に向かいました。

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中門、勅使門の前の道沿いに塔頭があります。

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「牧護庵(ぼくごあん)」 鎌倉時代の1318年、約翁徳検(仏灯国師)が後宇多天皇の勅令によって南禅寺5世となりました。1320年の徳検の没後、庵を創建して牧護庵と名づけ、南禅寺塔頭の一つになったといわれます。

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かっての庭園は、江戸時代の『都林泉名勝図会』にも掲載されているそうです。門前に「南禅寺五世佛灯国師塔所」の石標が建ち、上に地蔵が乗っています。石彫家・杉村孝氏のわらべ地蔵です。

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明治初年(1888年)廃仏毀釈によって法皇寺と合併して寺号を法皇寺と改めましたが、1992年に寺号を戻しました。その年「わらべ地蔵の庭」が作庭されました。通常は非公開ですが、特別公開されることがあります。

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杉村孝氏のわらべ地蔵は三千院のものが有名ですが、こちらの庭には100体以上のわらべ地蔵があるそうです。山門から数体のわらべ地蔵が見えます。

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「慈氏院(じしいん)」 南北朝時代の1385年、南禅寺44世・義堂周信(ぎどうしゅうしん)が足利義満に土地を譲られ寿塔を建てたのが始まりとされます。寿塔は生前に建てる墓塔で、現在の東山中学あたりでした。

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義堂周信は土佐に生まれ、臨川寺の夢窓疎石に師事、30歳過ぎに足利基氏に招かれ鎌倉に下り関東各地の寺の住持となりました。55歳のとき足利義満に召還されて帰京、相国寺建立を進言、建仁寺、等持寺の住持を務めました。江戸時代中期に大名の蜂須賀綱矩が再興しました。

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「聴松院」 詳しい創建時期は不明ですが、五山文学の大成者・希世霊彦(きせいれいげん、1401-1488)が、焼失した清拙正澄(1274-1339)の塔所・善住庵を再興して名を聴松院と改めました。この門はいつも閉まっています。

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細川氏の菩提寺で、左隣の門の石柱にある「大聖摩利支尊天」は本尊(秘仏)です。この門は昼間は開いていて自由に参拝できます。

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聴松院は江戸時代の元禄年間(1688-1704)から湯豆腐を寺で供していたといいます。平成19年(2007)院内の湯豆腐店は廃業、現在は「総本家ゆどうふ奥丹」が営業しています。

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南禅寺の北門を出て右手の坂道の突き当りに「帰雲院」があります。規庵祖円(南院国師)は無学禅師の門下で修業していましたが、師が亡くなり、東福寺の無関禅師のもとに移って更に修行を続けました。

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無関禅師が亡くなった後、亀山法皇の命により31歳の若さで南禅寺第2世の住持となりました。一宇もなかった伽藍の建立・整備に半生を捧げ「創建開山」と呼ばれました。遺言によって帰雲院に葬られました。

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「正的院」 鎌倉時代の僧・元翁本元(げんのうほんげん、1282-1332)の塔所として弟子により建立されました。かつては僧堂の北にあったといわれています。夢窓疎石とともに高峰顕日(こうほうけんにち)に師事、その法を継ぎました。

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疎石が南禅寺の住持となったときにその首座(しゅそ、修行僧のリーダー)となりますが、俗世をきらい比叡山や醍醐などにこもりました。後になって鎌倉万寿寺、ついで南禅寺の第11世住持となりました。

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コメント

今尾景年の龍は、
巨大な筆と硯を使ってということは、
墨絵なのですね。
凄く豪快で存在感の強い作品だと思います。

投稿: munixyu | 2019年10月12日 (土) 13:16

★munixyuさん こんばんは♪
法堂の格子戸から今尾景年の龍が見えるはずですが、見逃しました。今度は見ておきます。

投稿: りせ | 2019年10月19日 (土) 00:36

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