« 渉成園(枳殻邸) 2019夏 | トップページ | 京都タワーに上る 2019 »

2019年9月11日 (水)

東本願寺 2019夏

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jny_4332a
※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の渉成園を出て、西にある東本願寺を訪れました。以下では東本願寺の歴史をたどりながら境内を見て回ります。

上と下は「御影堂門」、以下登場する堂宇はすべて明治時代以降の再建です。噴水は京都市役所などを設計した武田五一によって大正3年(1914)に造られました。

Jny_4342a

「真宗本廟」は真宗大谷派の本山で東本願寺とも呼ばれます。宗祖・親鸞聖人(1173-1262)の門弟らが、その遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したことが始まりです。「御影堂」

Jny_4349a

親鸞聖人の娘覚信尼(かくしんに)は門弟から廟堂をあずかり、「留守職(るすしき)」として真宗本廟の給仕を務めました。以来、真宗本廟は親鸞の開顕した浄土真宗の教えを学ぶ根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟たちにより守られてきました。「参拝接待所」

Jny_4352a

第3代覚如(かくにょ)上人(1270-1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」を名のるようになり、やがて御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と、寺院としての本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになりました。「高廊下」

Jny_4362a

戦国時代、第8代蓮如(れんにょ)上人(1415-1499)は、宗祖・親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、生涯をかけて民衆に教えを広め、本願寺教団をつくりあげました。このことから、蓮如上人は「真宗再興の上人(中興の祖)」と仰がれています。

Jny_4376a

東山にあった本願寺は比叡山との関係で一時退転し、蓮如上人の北陸布教の時代を経て、山科に再興。その後、大坂(石山、現在の大阪市中央区)へと移転しました。(御影堂に上がります。)

Jny_4368a

しかし、第11代顕如上人(1543-1592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂も退去します。この際、顕如上人の長男教如(きょうにょ)上人(1558-1614)は、父と意見が対立して大坂(石山)本願寺に籠城したため義絶(離縁)されました。

Jny_4409a

天正10年(1582)に義絶は解かれ、天正13年(1585)本願寺は豊臣秀吉により大坂天満に再興。さらに天正19年(1591)京都堀川七条に移転しました。これが、現在の西本願寺(浄土真宗本願寺派の本山)です。

Jny_4370a

父・顕如上人の没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠居させられて弟(三男)の准如(じゅんにょ)上人が後を継ぎました。これは、母・如春尼が秀吉に働きかけたからだといわれています。

Jny_4434a

その後も教如上人は活動を続けました。慶長3年(1598)秀吉が亡くなり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、教如上人に接触して、慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を教如上人に寄進しました。「阿弥陀堂」

Jny_4423a

翌年上野国妙安寺(現在の群馬県前橋市)から宗祖・親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎えて慶長9年(1604)御影堂を建立、新たな本願寺を創立しました。これが「真宗本廟」で、教如上人は「東本願寺創立の上人」とされています。「比叡山」

Jny_4470a

江戸時代の東本願寺は、創立時から徳川幕府との関係は良好で、寺院と門徒の間には寺檀(じだん)関係(檀那寺と檀家の関係)による強い結び付きがありました。

Jny_4476a

幕末の戦火で両堂を失い、明治時代に入ると新政府による神仏分離令やその後の廃仏毀釈(仏教弾圧)によって、東本願寺も苦境に陥りました。正面は「阿弥陀堂門」。

Jny_4506a

厳しい財政状況のなか、あえて新政府への協力を惜しまず、また全国の門徒による多大な協力によって財政が再建され、明治28年(1895)両堂を始めとする堂宇が再建されました。向うは御影堂門、ここから境内に下ります。

Jny_4511a

一方で教団は封建制度の体質を残したまま、戦争に協力していきました。そのような中で、当派の僧侶・清沢満之(まんし、1863-1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を目指して宗門改革を提唱しました。梵鐘は宗祖750回忌に際して鋳造されたもの。

Jny_4519a

この運動は、昭和37年(1962)「同朋会(どうぼうかい)運動」として実を結び、以後50年以上にわたって東本願寺の信仰運動の基幹となっています。境内の南に「同朋会館」があります。

Jny_4523a

しかし、教団の改革運動はすべての人々に受け入れられた訳ではなく、昭和44年(1969)に教団問題が顕在化しました。歴代の法主(ほっす、法統伝承者)は本願寺住職、宗派の管長の3職を兼ねた絶大な権限を持っていました。「阿弥陀堂」

Jny_4546a

そのような伝統的な形態の教団を支持する勢力(末寺)とともに、大谷家の門首が真宗大谷派(東本願寺の宗派)を離脱して「浄土真宗東本願寺派」を結成しました。「総合案内書・お買物広場」

Jny_4541a

さらに、意見の対立から二つの勢力が真宗大谷派を離脱しました。世間では「お家騒動」ともいわれましたが、実際には1万近くあった末寺の95%以上が真宗大谷派に留まっています。梵鐘は慶長9年(1604)教如上人が鋳造させたもの。

Jny_4550a

堀にはかって「本願寺水道」という琵琶湖疏水の水が流れていました。市街地に埋設された送水管の老朽化のため送水が止まっていますが、京都の近代化に寄与した産業遺産として注目されています。

Jny_4558a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jny_4337a

|

« 渉成園(枳殻邸) 2019夏 | トップページ | 京都タワーに上る 2019 »

コメント

寺と政治は、今は何もないですが、
昔は強い結びつきがあり、大変だったようですね。
そう思うと、今の寺は、昔より健全なのかもしれません。

投稿: munixyu | 2019年9月11日 (水) 13:35

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 渉成園(枳殻邸) 2019夏 | トップページ | 京都タワーに上る 2019 »