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2019年9月15日 (日)

石清水八幡宮 裏参道から頓宮へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事の続きで、石清水八幡宮の社殿・楼門(上の写真)を後に、男山の東斜面にある裏参道を下りました。

道沿いに様々な史跡が点在します。下は「宝塔院(宝塔跡)跡」で、平安時代から存在した天台密教系の仏塔でした。かっては軒の四隅に風が吹くと鳴る琴がかけられ「琴塔」とも呼ばれたそうです。

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左の石段の上は東総門で、その横に「細橋(ささやきばし)」があります。かって本殿の東を源流とした石清水が下を流れていて、神聖なので渡ってはいけない橋だったそうです。

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細橋の先で道が二手に別れ、右は裏参道の下り坂です。左の展望台に寄り路します。展望台には「八幡たけくらぶ」の建物があり、この団体は付近の竹林の整備や竹細工の制作・販売などを行っているそうです。

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建物の前に、カマキリ、トンボ、蛇、オナガドリなどの巨大な竹細工が飾ってあります。

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この展望台はケーブルと社殿がある山頂との間の北斜面にあって、大山崎から、京都市南部、宇治市までが見渡せます。

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中央の丘は桃山丘陵で、中腹に安土桃山城が見えます。右奥の山は比叡山から東山連峰、中央の川は宇治川、手前の建物は淀大橋南詰のマンションです。

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こちらは左の方で、桂川、木津川、宇治川の三川合流地点あたりです。中央は愛宕山、左に大山崎・天王山があります。

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谷崎潤一郎の生誕100周年を記念して建てられた文学碑。このあたり(大山崎から橋本にわたる中州)を舞台にした小説『蘆刈抄』の一節が刻まれています。

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先ほどの分かれ道に戻り、裏参道の急な石段をしばらく下ると鳥居が見えてきます。

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「石清水社」(重文)、鳥居は江戸時代前期の1626年に周防守源朝臣重宗が寄進、右の社殿は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祀り、1618年に周防守重宗が幕命により修造しました。

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井戸は今でも水が湧いています。石清水社の前に「滝本坊跡」があり、石清水八幡宮の歴史上重要な人物・松花堂昭乗(しょうじょう)が住職をした寺院跡です。

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昭乗は安土桃山時代の天正12年(1584)奈良または堺に生まれ、17歳のときに石清水八幡宮社士・松田秀知の猶子(養子)として出家しました。師・実乗のもとで修業に励み、やがて両部灌頂を受け阿闍梨に昇り、44歳で瀧本坊住職となりました。

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54歳のときに住職を甥の乗淳に譲り、自らは泉坊境内に建てた方丈「松花堂」に隠棲しました。少し下ったところに「泉坊跡」(国史跡)があります(上の写真も)。

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昭乗は真言密教を究めた高僧であると同時に、絵画、書道、作庭、茶道、和歌など多方面に才能を発揮した当代一流の文化人でした。近年の発掘調査で見つかった露地庭が保存されています。

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書家としては近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」に数えられ「松花堂流」の祖として名高く、近衛信尋、小堀遠州、林羅山、木下長嘯子、石川丈山、佐川田昌俊、江月、沢庵らが松花堂に集い文化的サロンとなりました。

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ここまでの裏参道は祓谷に沿い、上の「影清塚」で表参道と合流します。向かい側にはかつて祓谷社があり、夏越大祓と年越大祓がここで行われていました(現在は稲荷社)。ここから表参道は「七曲り」を経て麓に至ります。

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明治の排仏毀釈で男山にある坊舎堂塔はすべて取り払われ売却されました。松花堂は泉坊書院・玄関とともに八幡女郎花の地(男山の西)に移築され、松花堂庭園として公開されています。時々、木の間から麓の景色が見えます。

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二の鳥居の前に仮屋が設けられていました。おそらく9月15日に行われる「勅祭 石清水祭」の準備だと思われます。その向うに「頼朝公ゆかりの松」が右から伸びています。

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源頼朝は49歳のとき、鎌倉から持参した6本の松の苗木を奉納し、その「六本松」の唯一の生き残りが昭和22年落雷により焼失、現在の「頼朝松」は昭和30年に奉納された2代目です。

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摂社「高良(こうら)神社」 石清水八幡宮を創建した僧・行教が同時期に創建したといわれ、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いの兵火で炎上、その後幾度かの再建・移築を経て、現社殿は明治39年に再興されたものです。

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石清水八幡宮はもっぱら国家や朝廷の守り神でしたが、高良神社は八幡地区の氏神として住民たちの信仰を集めてきました。徒然草に仁和寺の法師が麓の極楽寺・高良神社などを本宮と勘違いして、山に上らず帰ってしまった逸話があります。

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ところで、石清水祭は清和天皇の貞観5年(863)、旧暦8月15日に「石清水放生会」と称して、魚鳥を放ち「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う祭儀として始められました。「頓宮」の「南門」 

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天暦2年(948)からは勅使が遣わされる勅祭となり、国家の安寧と国民の幸福を祈誓しました。石清水祭においては山上の御本殿から御神霊が遷され下の頓宮殿で祭儀が行われてきました。

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その後石清水祭は紆余曲折がありましたが、現在では加茂祭(葵祭)、春日祭とともに日本三大勅祭の一つとなっています。ただし、掌典長が勅使の役を務めます。放生池には一輪だけ蓮が咲いていました。

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戦後、国家公務員の宮内庁掌典職が廃止され、現在は皇室に私的に雇われる(同名の)職員となりました。それでも勅祭の伝統は守られているといえます。「一の鳥居」

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コメント

「八幡たけくらぶ」
カマキリの竹細工、細かく作ってありますね。
竹細工は作ったことがありませんが、
竹とんぼを飛ばしたり、楽しいですよね。

投稿: munixyu | 2019年9月15日 (日) 18:30

★munixyuさん こんばんは♪
男山は竹林があって、山の整備をしていると竹材が手に入るのでしょうね。男山も人の営みと共生する里山で、常時手入れをしないと、環境を維持できないそうです。、

投稿: りせ | 2019年9月22日 (日) 00:22

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