« 御金神社 鉱山の神から金運の神へ | トップページ | 市比賣神社 市場と女人の守護神 »

2019年9月 3日 (火)

下寺町の寺院たち 六条富小路あたり

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jny_2603a
※写真は全てクリックで拡大します。

天下を統一した豊臣秀吉は京都改造に乗り出し、洛中を囲むように御土居を建造、その内側の寺町通と寺之内通に寺院を移転しました。同様に、現在の五条通より南の地域にも寺院を移転、「下寺町(しもでらまち)」と呼ばれました。

上は六条通の高倉通東ルにある「(株)タキモト 名酒館・葡萄館」、下は六条通と富小路通の交差点です。この記事は湘南情報数理化学研究所主宰の藤田眞作氏による「京都こだわり探訪シリーズ第12回源融の河原院と下寺町」を参考にしています。

Jny_2482a

現在では、五条通と六条通、高倉通と河原町通で囲まれた地域に多くの寺が残っています。先日の記事では、五条通に近い北部と高倉通の寺院を紹介しました。最初に富小路通を北上します。

「元六條御所 長講堂」 後白河法皇(1127-92)は台頭する平氏と源氏の間を巧みに生き、最後の院御所としたのが六条殿です。当初は西洞院大路と油小路の間にありました。

Jny_2490a

長講堂は六条殿に持仏堂として建造。六条殿は文治四年(1188)に焼失、同年源頼朝によって再建、その後長講堂も焼失・移転を繰り返し、最後に秀吉によりこの地に移転しました。本尊の丈六阿弥陀三尊像は重要文化財。

Jny_2493a

「蓮光寺」 明応元年(1492)真盛上人が新町高辻に草庵・萱堂を結んだことがはじまりで当初は天台宗でした。天正19年(1591)秀吉によって現在地に移され、浄土宗に改められたといいます。

Jny_2606a

ここには、大阪夏の陣で敗れ、六条河原で処刑された長宗我部盛親の墓があります。盛親は一時寺子屋の師匠をしていて当寺の住職と親交があった縁といわれています。

Jny_2607a

「白毫寺」 通称を太子堂といい律宗の寺院です。忍性律師が開基でもとは知恩院近くにありましたが、慶長8年(1603)知恩院の再建拡大のときにこの地に移転しました。本尊は聖徳太子自作と伝えられる聖徳太子立像。

Jny_2612a

「極楽寺」 天文12年(1543)一蓮社笈誉が四条坊門東洞院に創建した浄土宗の寺院で、天正18年(1590)秀吉により現在地に移りました。住吉の井鼻から遷された極楽寺地蔵は京洛四八願所地蔵尊の第46番、手引地蔵(安産地蔵)とも呼ばれます。

Jny_2613a

「新善光寺」 信州の善光寺を創建した本田善光の子・本田善助が創建した浄土宗の寺院で、来迎堂とも呼ばれます。路地の入口には「信濃善光寺分身如来」の石碑があります。

Jny_2624a

本尊の阿弥陀仏は信州の善光寺と同一体といわれています。応仁の乱の後各地を転々として、天正19年(1591)秀吉により現在地に移転しました。

Jny_2627a

富小路通の更に北には、先日記事にした上徳寺(よつぎ地蔵)、徳林院、本覚寺があります。ここからもう一度六条通に戻ります。

Jny_2619a

六条富小路下ルの「萬年寺」 本尊として源義経の念侍仏とされる阿弥陀如来を祀ります。由緒・変遷など詳しいことは不明です。このあたりは江戸時代の度重なる大火で記録が焼失してしまった寺もあります。

Jny_2648a

さらに富小路通を下がると、「雅松(わかまつ)公園」があります。 ここは、元六条院小学校(雅松小学校)の跡地です。

Jny_2653a

公園の入口の南に祠があります。地蔵尊だと思われますが、立派な造りです。

Jny_2661a

南を見ると、東本願寺の渉成園の北塀があり、その手前の上珠数屋町通が富小路通の南端です。ここからもう一度六条通に戻ります。

Jny_2659a

六条通を少し東に行くと南北の通りと交差します。南北各1町程度の短い通りで名称は不明です。交差点の北東の角にある延寿寺は後程紹介するとして、この通りの南に入ります。

Jny_2514a

「福田寺」 文永9年(1272)鎌倉幕府将軍宗尊親王が京都に戻ってから剃髪して堯空(ぎょうくう)と名乗り、東山の渋谷に天台宗の寺院として創建、後に時宗に改め汁谷道場と称しました。

Jny_2528a

豊国神社造営にともなって、慶長3年(1598)高倉通松原下ルに移転、しばらくして現在地に再移転したと伝えられます。下は向かいにある「ザ 別荘 そそ」、別荘型のホテルのようです。

Jny_2555a

「荘厳(しょうごん)寺」 応永12年(1405)自空上人の弟子・義縁和尚が創建した時宗の寺院です。かっては高辻の北側で油小路・堀川の間に大きな寺域を占め高辻道場佛光山荘厳寺と呼ばれました。

Jny_2539a

応仁の乱で焼失、文明年間に再建、天正19年(1591)秀吉により現在地に移りました。その後衰退・中興するも相次ぐ大火で焼失、明治以降に滋賀県の民家から譲り受けた家屋を庫裡、宮家から譲り受けた御殿を本堂に再建されました。

Jny_2544a

河原町通の向かいから「延寿寺」の 二層の山門が見えます。後白河上皇の六条殿に建てられた長講堂が一時衰退したとき、その三尊を受け継いで、延寿寺と称したといわれます(時期は不明)。天正19年(1591)秀吉により現在地に移転。

Jny_2679a

何回も火災にあうも本尊の金仏は無事でした。しかし、どんどん焼き(元治の兵火)で溶解、その後木造で再造されました。現在の建物は、明治15年(1882)の再建。

Jny_2563a

「金光寺」 市中山という時宗の寺院で延寿寺の北にあります。空也上人が開基で当初は堀川七条の北にあり、本願寺造営に伴って現在地に移転、本尊阿弥陀佛は定朝の作、かって市場だったことから市屋道場ともいわれます。

Jny_2792a

金光寺は市比賣神社の隣にあり、前の道は先ほど通った名前が不詳の通りに交わります。この通りの南は延寿寺の裏手を通ります(最後の写真)。

Jny_2803a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jny_2814a 

|

« 御金神社 鉱山の神から金運の神へ | トップページ | 市比賣神社 市場と女人の守護神 »

コメント

「ザ 別荘 そそ」
面白い名前の別荘ですね。
お店とか旅館とかって、名前も大事になってきますよね。

投稿: munixyu | 2019年9月 3日 (火) 14:08

★munixyuさん こんばんは♪
この宿は、おもてなしセレクション金賞を受賞したりテレビで紹介されたりして、最近話題の町家ホテルのようです。「そそ」が何を意味しているかは分かりません。

投稿: りせ | 2019年9月 4日 (水) 00:18

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 御金神社 鉱山の神から金運の神へ | トップページ | 市比賣神社 市場と女人の守護神 »