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2019年8月18日 (日)

長楽寺 建礼門院と頼山陽

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

円山公園の東にある長楽寺に行ってきました。「長楽寺」は山号を黄台山(おうだいさん)という時宗の寺院で、洛陽三十三所観音霊場第7番札所です。下は大谷祖廟の北門前から続く参道。

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平安時代初めの延歴24年(805)桓武天皇の勅命によって、伝教大師・最澄(767-822)を開基に、大師作の観世音菩薩を本尊として創建されました。(庫裏に拝観受付の窓口があります。)

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創建当初は、比叡山延暦寺の別院として建てられた天台宗の寺で、山号は唐の長楽寺に景色が似ていたからだといいます。平安時代中頃には歴代天皇が帰依して勅願寺となりました。「拝観所」

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特に、宇多天皇により本堂などが整備され、藤原氏をはじめとする当時の貴族が参詣、菩提寺ともなりました。室町時代の至徳2年(1385)国阿(こくあ)上人が寺に入り時宗に改宗し、現在に至ります。

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この庭は、室町時代に相阿弥が足利八代将軍義政の命により銀閣寺の庭を作る時、試作的に作ったと伝えられます。東山(長楽寺山)の斜面を庭に取り入れ、山腹からの湧水を滝として落として苑池としています。

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江戸時代の享保20年(1735)北村援琴によって著された『築山庭造伝』にも、「相阿弥作」として「庭の景すぐれて自然の趣のあるすがた」と讃えています。室内には奉納された建礼門院の絵画が多数展示されています。

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広間の隣にお茶席、隣の部屋では「文人・名作 書画 写真展」が行われていました。 以前は室内の撮影禁止でしたが、今回は書画写真展の部屋だけが禁止になっていました。

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平家物語の「灌頂巻」によると、文治元年(1185)には高倉天皇の中宮、安徳天皇の生母、建礼門院(平徳子)が壇ノ浦の戦いの後、この寺で出家したとされます。拝観所の前にある客殿「双龍舞閣」 左の石段を上ると、

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本堂に祀られている本尊の准胝(じゅんてい)観世音菩薩は最澄作と伝えられます。最澄が唐からの帰国の際、暴風で難破しかけた船中で示現したという二頭の龍にまたがる観世音を刻んだものといいます。

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歴代天皇・勅封の秘仏として、天皇の即位式にだけ開帳されてきたそうです。本堂は、延歴年間(782-806)に創立、その後修復・再建されましたが明治18年に廃却、明治23年正伝寺の法堂(桃山城の遺構)を譲り受けました。

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「十一重石塔(建礼門院毛髪塔)」 建礼門院は1185年5月に長楽寺の印西を戒師として出家して直如覚と称し、同年10月に大原・寂光院に移りました。出家の際に安徳天皇の御直衣を奉納、寺に幡(旗)として伝えられているそうです。

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「鐘楼」 梵鐘は南北朝時代(1378年)および江戸時代(1657年)に鋳造されたという記録があり、「長楽寺の鐘」として知られていました。戦争中に供出、昭和31年(1956)新たに設計、鋳造されました。

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梵鐘の再興は住職・牧野体山や俳人・村田橙重の後援により、鐘楼の前に橙重の句碑があります「百八の一つをつきぬ除夜の鐘」 。住職は同じホトトギス派の俳人で、橙重の喜寿の祝いに碑を建てたそうです。

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「平安の滝」 水は「八功徳水」と呼ばれ、専修念仏を広めた隆寛が「嘉禄の法難」(1227年)で陸奥国配流される際に、ここに青蓮華が生えたといいます。青蓮華は仏の目にたとえられる蓮の一種で、青蓮院の寺名にもなりました。

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ちなみに、八功とは、甘く、冷たく、軟らかく、軽く、清らか(清浄)、無臭、喉を損なわず(飲時不損喉)、腹を傷めない(飲已不傷腹)という八つの優れた性質を指すのだそうです。細い滝ですが、滝口が高いので勢いがあります。

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滝の前に萬造寺斎の歌碑「山にゐて 寂しきものか草原の 子馬のひとつ 我が後を追ふ」。萬造寺は明治19年鹿兒島県に生まれ、「新詩社」に参加後、京都で「街道」を主宰、同32年病歿しました。

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歌碑は昭和48年(1973)に建立、記念として堀内大学や矢野峰人の寄稿文と萬造寺の歌を収載した16pの小冊子が刊行されました。 横に3体の石仏があります。

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平成20年(2008)に収蔵庫が火災によりほぼ全焼しましたが、一遍木像(重文)を始めとする全ての文化財は住職らによって運び出されて難を免れました。下は再建された収蔵庫です。

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収蔵庫の前に「頼山陽先生墓、頼三木三郎墓、徳川慶喜公ゆかりの尊攘苑」という看板があり、石段が墓地へ続いています。

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「頼山陽」は広島藩出身の江戸後期の歴史家・思想家で、上洛して塾を開き多数の著書を著しました。(この辺りは竹林になっていて、下に多数の枯れ竹が積んでありました。台風の被害かどうかは分かりません。)

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右に「尊攘苑」への道が分かれます。尊王攘夷運動が盛んだった水戸藩関係者(水戸烈士)の墓があります。左の「外史橋」を渡ります。この名は頼山陽の『日本外史』から名づけられたと思われます。

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頼山陽の一族、弟子たちの墓地の入口に漢文で書かれた碑があります。 満州の国務大臣・鄭孝胥の作の漢詩「謁山陽先生墓」で、頼山陽の業績が完結に書かれています。

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頼山陽の主著・日本外史は尊王攘夷運動に影響を与えました。簡明で情熱的な文章に加え、随所に軍記物語を配して一般庶民にも人気があり、昭和初期まで広く読まれ、日本史のベストセラーといわれています。

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「頼三樹三郎の墓」 山陽の三男で儒学者、8歳で父を亡くし、京都・大坂の儒学者らに学びます。尊王攘夷論を唱え、徳川慶喜の擁立に動き、安政の大獄で捕縛され、処刑されました、享年35歳。

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頼山陽一族の墓の後ろ(東)には長楽寺歴代の墓があります。

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墓参道の途中から、市内を見渡せる場所があります。右奥は愛宕山で、手前に円山公園が見えます。

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コメント

ここは、山を感じる山らしいところですね。
日の感じ、影の感じが夏の山を感じさせてくれます。
立秋を過ぎましたが、まだまだ暑いですよね。

投稿: munixyu | 2019年8月18日 (日) 18:19

★munixyuさん こんばんは♪
少し山に上るので何となく涼しい気がしていましたが、やはり暑くて大変でした。写真には現れていませんが、お墓への道は伸びた草に覆われ、やぶ蚊と蜘蛛の巣で大変でした。

投稿: りせ | 2019年8月23日 (金) 00:12

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