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2019年8月23日 (金)

正法寺と霊明神社 2019夏

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の霊山観音を出て、正法寺(しょうほうじ)と霊明神社を訪れました。霊山護国神社の参道(維新の道)から行くのが楽なのですが、工事車両が行きかって危ないので、もう一つの道にします。

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二年坂を少し南に歩くと、左に「開山国阿上人参詣道 是ヨリ三丁」とある石標があります。

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この道は霊山正法寺道といい、左は現在ホテル建設中の「京大和」、右はレストラン「ひらまつ高台寺」です。ひらまつは8月19日~26日の期間、夏季休業中だそうです。

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この道は「幕末志士葬送の道」ともいわれています。右に「霊明神社神道墓地」があります。

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墓地の入口横に石碑があり、「坂本龍馬 中岡慎太郎 など 幕末志士葬送の道」とあります。平成22年(2010)、NPO「京都龍馬会」が建立した記念碑です。2年前と向きが変わっています。

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さらに急な石段(TOPの写真)を上ると、霊山護国神社の前から南に行く道と交わります。この先の石段を上った突き当りに正法寺があります。ちなみに、洛西と八幡にある正法寺とは関係はありません。

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石段の途中に霊明神社がありますが、後で訪れることにします。

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「正法寺」は時宗霊山派の本山で、山号を霊山(りょうぜん)または霊鷲山(りょうじゅせん)といいます。山号がこの辺りの地名、霊山の由来になっています。横の木戸から入ります。

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この場所には、平安時代初めの延暦年間(728-805)、最澄(767-822)が天台宗の霊山寺を開いたとされます。当時の光孝天皇(830-887)の勅願所にもなりました。(山門の向こうにはさらに石段が続いています。)

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鎌倉時代前期の元久年間(1204-1206)法然(1133-1212)が念仏道場としたともいわれ、浄土宗の影響を受けたと考えられます。その後霊山寺は衰退しました。石段を上ると、二つの建物が向き合っています。

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南北朝時代の1383年、寺を譲られた国阿上人は正法寺と改めて時宗道場として再興、阿弥陀堂を建立しました。以後、時宗霊山正法寺派(霊山派)の本山になりました。「庫裡」

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本堂には、平安時代作の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩像、室町時代作の本尊・寝釈迦像を始め、雨宝童子像、国阿上人坐像、弁財天、大黒天、廃された塔頭の遺仏など多数を安置しています。

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南北朝時代の後小松天皇(1377-1433)、室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408)らも帰依して、正法寺は興隆しました。本堂の右奥に「鏡水(かがみのみず)」と呼ばれる井戸があります。

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名水とされ、藤原明衡(989 -1066)は詩で「洞水」、菅原孝標女(1008-1059)の『更級日記』では「山の井」と詠われています。かなり山を登ったところにありますが、今も水が湧いています。

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江戸時代には時宗十二派の「霊山派」の本寺とされて江戸幕府から朱印状を与えられ、塔頭十余を有したといわれます。本堂の裏には鎌倉時代の板碑(はんぴ)があり、国阿上人の墓が納められています。

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板碑は板石塔婆ともよばれ、板状に削った石碑を供養塔として使用したものです。「京都の三板碑」の一つに数えられ、他は紫野・西向寺、百万遍・了蓮寺にあります。

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奥の墓地に「品川子爵夫妻の墓」。品川弥二郎は、長州出身で吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に加わりました。維新後、内務大丞、枢密顧問官、宮中顧問官、宮内省御料局長などを歴任、1892年政治団体・国民協会を結成、副会頭となりました。

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正法寺は明治以降衰退し、現在は本堂(釈迦堂)、庫裏、塔頭1を残すのみとなりました。ただし、平成22年(2010)には400年ぶりに「日想観(にっそうかん)」が復活したそうです。

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江戸時代初期まで行われた行法で、極楽往生を願って西向きに座り、夕日を拝みます。西山の眺望がある寺ならではの修行法です。正法寺は現在なお再興中といえます。

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「霊明(れいめい)神社」は、江戸時代後期の1809年、村上都愷(くにやす)が正法寺塔頭・清林庵が所有する山林1000坪を買い受けて建立しました。

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徳川政権下でも、この社では神道による葬式、神葬祭をが行われました。幕末の1862年、3代・村上都平(くにひら)のとき、神葬祭を勧める長州・毛利家と関係を持ち、在京志士の葬送の地になりました。正面にさざれ石があります。

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仏式の葬礼は正法寺で、こちらは神道に基づく葬礼が行われました。以来、長州の久坂玄瑞、池田屋事件で暗殺された吉田稔麿、近江屋事件で暗殺された坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉らが当社に葬られました。

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明治初年(1868年)、正法寺と霊明神社の境内地や墓地は上知になり、東山招魂社に譲られました。東山招魂社は後に霊山護国神社となり、幕末の志士たちの霊地となっています。

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右の本殿に天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、熊野三柱大神の菊理媛尊(くくりひめのみこ)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(こととけおのみこと)を祀ります。

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左は末社の猿田彦御神石で、道路や旅行の安全、縁結び、厄除けなどのご利益があるとか。この神石は源融の六条河原院に道祖神として祀られ、後に数百年にわたり五条御幸町の借家裏にありました。

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住人が何度も崇りに遭い、家主が当社初代に依頼しお祓いをすると、夢に猿田彦大明神が顕れて悪水の不浄に耐えかね遷座を望んだそうです。そこで、神石をこの場所に遷座したといわれています。

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正法寺と霊明神社は、ともに幕末の混乱期に没した志士たちを葬り、その墓を守ってきました。もっと注目されてもよい寺社です。

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コメント

幕末は、いろんなことが目まぐるしく起こりましたよね。
もしかしたら僕たちの知らない歴史も、まだあるかもしれませんね。
ただ、坂本龍馬が生きていたらどうだったのか等、
いろんなたらればのある、歴史的に紙一重感の強い面白い時代でしたよね。

投稿: munixyu | 2019年8月24日 (土) 15:03

★munixyuさん こんばんは♪
坂本龍馬が生きていたら、と考えることは重要だと思います。坂本家の子孫の方は、龍馬の志を「和龍魂」と表現して普及させようとしているそうです。「和を以って貴しとなす」の精神が世界平和のために必要だとおっしゃっていました。

投稿: りせ | 2019年8月29日 (木) 02:15

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