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2019年8月 2日 (金)

御香宮神社 石庭と南の史跡たち

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

御香宮神社で茅の輪くぐりをした後、「遠州ゆかりの石庭」を見てきました。

社務所の玄関を入ると、右に彫刻家・木代喜司(よしじ)氏の「明日への伝言」という像が置いてあります。氏は京都教育大学教授でもあり、この作品は第42回日展(2010)に出展したものだそうです。

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小堀遠州(1579-1647)は元和9年(1623)伏見奉行に任命され、庁舎の新築を命ぜられました。遠州は豊臣秀吉や徳川家康・秀忠らに仕えた大名で、徳川幕府の作事奉行として建築・造園にも才を発揮しました。

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遠州は、富田信濃守屋敷跡(現・京阪伏見桃山駅の東)に庁舎を建て、奉行所内に石庭を造りました。後の寛永11年(1634)上洛した3代将軍・徳川家光は伏見奉行所に立ち寄りました。

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家光は立派な庭園に感心して褒美として5千石を加増、遠州は一躍大名となり出世の糸口にもなった庭園でした。しかし、近代に入り庭園は壊され、親兵隊、陸軍工兵隊、大戦後は米軍キャンプ場に姿を変えました。

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昭和32年(1957)、市営桃陵団地建設の際に庭園の遺構が発見され、その後造園家・中根金作によって、この場所に庭園が再現されました。(玄関前の部屋から奥の広間に来ました。)

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遠州の手法を取り入れた鶴亀式の枯山水式庭園で、方形の地割に白砂が敷かれ、背後に大小の石組、刈込を配しています。鳥羽・伏見の戦い(1868)により焼けた石も用いられているそうです。

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庭の中央に据えられた手水鉢(水船)には室町時代の文明9年(1477)の銘があり、在銘のものは珍しいとされています。後水尾上皇が命名した「ところがらの藤」も移植されてます(TOPの写真の右)。

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二つの部屋には様々な書画や彫像が置いてありますが、詳しくは分かりません。

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石庭のある社務所(書院)を出て、境内の建物や史跡を見ながら南にある表門の方に向かいます(この日は北門から入りました)。「能舞台」

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「九香軒」 参集館別館にある茶室で、様々な茶会が行われているようです。境内の西(西門の横)にあり左は神輿庫です。

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明治初年(1868)の鳥羽・伏見の戦では、境内が薩摩藩(新政府軍)の駐屯地になりました。大砲4門が置かれたそうですが、幸い社殿は戦乱による焼失を免れました。この記念碑は拝殿の東南にあります。

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茅の輪くぐりを終わった方が帰って行きます。この日(7月31日)は午後11時からも茅の輪くぐりの神事が行われました。

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表門から続く参道から拝殿の方、茅の輪くぐりはほとんど終わったようで列が見えません。

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「参集館」

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「迎賓館(貴賓館)」 ここには昭和に作庭された庭園があり、枯川が流れ、滝組、石橋、石組などに伏見城の残石を多く用いています。また、残石により造られた手水鉢や織部燈籠、五葉松、椿などの植栽があるそうです。

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「桃山天満宮」 南北朝時代の崇光上皇(北朝第3代)は、伏見殿から御香宮神社の東の木幡山の中腹、月見の丘の北の別御殿に移り、そこで亡くなりました。その後、別御殿は寺に改められ、その鎮守社としてこの天満宮が祀られました。

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伏見城の築城にともない、寺は臨川寺の東に移され天満宮はそのまま残り荒廃しました。江戸時代に観音寺住職らが20年以上の歳月をかけて観音寺南に新たな社殿が建てられ、昭和に周辺の開発に伴い当社境内に遷宮されました。

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桃山天満宮は学問の神・菅原道真を祀り、「厳島社」、「老松社」、「白太夫社」、「紅梅殿」など天満宮おなじみの末社が揃っています。上は伏見城の残石、下は去来の句碑「梅の香にのっと日の出る山路かな」。

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「車石」 江戸時代、竹田街道の棒鼻付近に敷き詰められていた牛車のための輪型石です。車道は単線のため、午前は上り、午後は下りの一方通行になっていたそうです。

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「白菊石」 奈良時代、白菊を常食にして仙術を使う翁がいて、白菊を打ちふるって清水を出し、白菊の露で病気を治療し、後に石に姿を変えたといいます。天皇から「金札白菊大明神」の神名を賜り、里人が社殿を造営したのが金礼宮の始まりです。

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隣に幕末・明治前期の公家・東久世通禧(みちとみ)の歌碑「仙人の昔のあとは白菊の 千代のかほりに残りけるかな」。

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「伏見義民の碑」 江戸時代、伏見は交通の要衝として栄え、1779年に奉行となった小堀政方は数々の不正・悪政を行い住民を苦しめていました。政方は遠州の子孫で、碑は中央の柱です。

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1785年伏見の町人・文殊九助ら7名が伏見奉行が不法な御用金を課したことなどを寺社奉行に直訴しました。3年後政方は奉行を罷免され、7人はお構いなしとなりましたが既に獄中で病死していました。

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政方は改易され遠州以来の領地を失いましたが、後に茶人として遠州流の作法を書物として後世に伝えました。明治になり自由民権運動のさきがけとして事件が注目され落着後百年に7名を顕彰する碑が建立されました。

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「大手筋木鳥居旧基礎石」 江戸時代の1659年紀州徳川頼宜が大手筋に石鳥居を奉納、大地震で倒壊しましたがその基礎部の上に現在の木鳥居が建造され、平成10年に交換した基礎部です。当時の優れた建築技術が見られるそうです。

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「表門」(重文)は元和8年(1622)、 徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進したものです。正面を飾る蟇股には中国二十四考の物語が彫られています。

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「黒田節」誕生の地の石碑 「酒は飲め飲め飲むならば、日の本一のこの槍を…」という福岡民謡は、大名・福島正則の伏見屋敷で開かれた酒宴での出来事を唄ったものだそうです。

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「大鳥居」 かってこの辺りは御香宮神社の境内でしたが、豊臣秀吉が桃山丘陵に伏見城を造った際に神社を城の鬼門封じに遷し、城の大手門から西に開いたのがこの大手筋です。

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この後、大手筋商店街の方に向かいました。

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コメント

十三、四年前に、「庭園ガイド」を読んで、この小堀遠州の庭を観に行ったのですが、
神社の社務所の人が、「音割れのひどいガイド・テープ」を爆音で流してきて、
10分も庭を見ていられずに、そうそうに逃げて退却した思い出のある庭ですね。
そんな良い思い出ではありませんが。

「ちょっと社務所の人、ひどすぎるな」と思って伏見から帰ってきました。

目的は御香水と庭園だったので、いちおうは半分、目的は達成しましたが…。

その10分間、我慢しながら見た庭園の様子と、まったくおなじ景色ですね。
作庭は、良い庭だとは思うんですけれど。

投稿: manabu | 2019年8月 2日 (金) 11:18

灼けつくような暑さですね。
恐ろしい夏です。
東久世通禧の歌
仙人の昔のあとは白菊の 千代のかほりに残りけるかな
公家らしい上品な歌ですね。
涼しさも感じます。

投稿: munixyu | 2019年8月 2日 (金) 18:39

★manabuさん こんばんは♪
私が行った日は皆さん忙しそうで、ガイドもありませんでした。そのためゆっくり庭を鑑賞できましたが、ちょっと物足りない気もしました。

投稿: りせ | 2019年8月 4日 (日) 02:11

★munixyuさん こんばんは♪
教養と感性があって生まれた歌ですね。

投稿: りせ | 2019年8月 4日 (日) 03:31

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