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2019年7月20日 (土)

建仁寺 境内東の塔頭と史跡

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、建仁寺の本坊と法堂を訪れて記事にしましたが、その後で境内を散策しました。境内の東には塔頭が並び、建仁寺の歴史を示す史跡も点在します。

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「陀羅尼の鐘」 修行僧が寝につく亥の刻(午後10時)過ぎ、観音慈救陀羅尼を一万返唱しながらつくことから、この名があります。北門から本坊・法堂へ行く途中にあります。

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鴨川の七条の下流、釜ヶ淵に沈んでいた源融(とおる)の旧物を「えいさい、ようさい」と、開山の明庵栄西(みんなんようさい)の名を呼びながら引き上げたという伝説があります。鐘楼の南に道があり、その奥に塔頭があります。

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「西来院」 開基は蘭渓道隆(1213ー78)。応永年中(1394ー1428)、4世・道隆の法孫大宗が清本院を再建して西来院と号したのに始まります。応仁および天文の兵火で被災しましたが、慶長年間(1596ー1615)以降に再建されました。

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道隆は南宋に生まれ、1246年入宋していた泉涌寺僧・月翁智鏡の門弟とともに来日。執権北条時頼の帰依を受け1249年時頼が建立した鎌倉・建長寺の開山、1259年頃建仁寺住持となり兼学から禅の寺風に改めました。(境内の東の道を南に下ります。)

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「両足院」 鎌倉時代の龍山徳見(りゅうざんとっけん、1284-1358)禅師を開山とする建仁寺の塔頭「知足院」が始まりです。徳見は栄西禅師の法脈・黄龍派(おうりょうは)を受け継いでいました。

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両足院の鎮守「毘沙門天堂」 本尊はかって鞍馬寺の毘沙門天の胎内仏で、織田信長の比叡山焼き討ちの際に鞍馬寺の僧が安全のため尊像を室町将軍家の茶家・比喜多養清宅に疎開させたものです。

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栄西禅師は吉備津神社の権禰宜の子として誕生、1154年14歳で比叡山延暦寺で出家得度、1168年南宋に留学しました。形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すため、禅を用いることを決意しました。「法堂」

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1191年に2度目の入宋のとき虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、帰国して九州の福慧光寺、千光寺などで布教しました。(向うは開山堂の北門、その右手前に「平成の茶苑」があります。

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高山寺の明恵上人が建仁寺を訪ねたとき、栄西禅師は歓待して茶の効用を説いて数粒の茶種を譲りました。明恵は、栂尾や宇治で茶の栽培を試み、その後、伊賀、伊勢、駿河、武蔵へと栽培地は広がっていきました。昨年の台風による倒木の切株。

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「桑の碑」 栄西禅師は飲水、中風、不食、瘡病、脚気の五種の病に、諸仏菩薩の樹・桑の妙薬が効くと説きました。

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「茶碑」 茶祖ともいわれる栄西禅師は宋に渡った際に茶を飲み、茶と禅寺で行われていた茶の作法を日本に伝えました。茶は養生の仙薬、喫茶は延齢の妙術と説きました。茶は坐禅修行の際の眠気を覚ますためにも飲まれました。

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「洗鉢(せんばつ)池」 この名は修行僧が持っている自分専用のお椀を洗うという意味です。特に、禅宗の食事作法では食後にお椀に温かい茶や湯を入れて沢庵などの漬物を使用してお椀を洗うことを洗鉢というそうです。

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「開山堂」 旧名を護国院、古くは興禅護国院といい、開山・栄西禅師の入定塔(墓所)です。2層の門を入ると正面に開山の廟があり、苔むした庭にはお手植えの菩提樹が今も茂っているそうです。

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「道元禅師修行の地」 曹洞宗開祖の道元は比叡山で出家、後に栄西禅師の高弟・明全に師事して修行します。1223年明全と共に宋に渡り各地で学びましたが、明全は1225年に死去。5年後に道元は明全の遺骨を持って帰国して建仁寺に入りました。

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「楽神廟」 建仁寺の鎮守で、明星尊(楽大明神)を祀ります。栄西禅師の母親が岡山吉備津神社の末社「楽の杜」にお参りすると、夢に明星を見て栄西を身ごもったという逸話をもとにこの地に祀られています。

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また、楽大明神の本地仏(神仏習合した仏教での姿)は虚空蔵菩薩で、知恵、学徳、記憶力などの功徳があるとされ、建仁寺が優れた学僧を輩出してきた由縁とされます。最近では受験合格祈願の信仰を集めています。

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「浴室」 寛永5年(1628)295世・三江紹益によって建立され、七堂伽藍のひとつです。内部は待合、浴室、土間(火炊場)に三分され、禅寺では入浴も修行の大切な部分として、厳しい作法が細かく定められているそうです。

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境内の東南のこの門の先にも塔頭・禅堂があります。

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「霊洞院(僧堂)」 建仁寺26世高山慈照の没後、その塔院として建立、現在の堂舎は1853年のもの。方丈前の庭園は江戸中期の享保頃の作と推定され、昭和49年国の名勝庭園に指定。現在、建仁寺派の修行道場になっていて拝観はできません。

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この道の突き当りに「大統院」があります。開基は青山慈永(せいざんじえい、1302-69)で、観応年中(1350-52)の創建。天文年間の1552年に類焼、1637年に再建されました。

 

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再建の際、同じく焼失した光沢庵を吸収、明治には如是院を吸収しました。如是院は此山妙在(しざんみょうざい、1296-1377)の創建です。この道の途中に右(南)に行く道があります。

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「霊源院」 室町時代の1394-1428年頃、龍山徳見和尚を勧請開山として創建。当初は霊泉院といいました。室町時代の五山派の代表的学僧を多く輩出、大徳寺の一休宗純は幼年慕哲龍攀のもとで作詩の法を学びました。今年の冬に特別公開されました。

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「六道珍皇寺」 836年に山代淡海によって「国家鎮護所」として建立、開基は弘法大師とも小野篁ともいわれます。初めは真言宗で東寺の末寺でしたが、南北朝時代に大昌院を創建した良聡が管領となり、建仁寺所属の寺院となりました。北門です。

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元の道に戻り、境内の南西の「禅居庵」は小笠原貞宗が元弘年間(1331-33)に創建、建仁寺第23世・清拙正澄(せいせつしょうちょう、1274-1339)が開山として晩年退隠しました。今年の冬に鎮守の摩利支天堂を訪れました。

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「勅使門」(重文) 銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を伝えています。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」「矢立門」と呼ばれています。平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものといわれています。

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「三門」 大正12年静岡県浜名郡の安寧寺から移建した三解脱門。「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼」と名づけられました(TOPの写真も)。楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が祀られています。

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室町時代中期の瑞巌龍惺の『春眺』の詩の中に、「望闕楼高くして帝城に対す」という句があるそうです。手前は「放生池」で蓮池でもあるようです。

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コメント

昨年の台風による倒木の切株。
こういうのを見ると、被害が生々しく思います。
でも、きのこが生えているのが可愛いですよね。
生命を感じます。

投稿: munixyu | 2019年7月20日 (土) 18:47

★munixyuさん こんばんは♪
建仁寺は賑やかな祇園にあるのに、台風による倒木が多かったのは驚きました。

投稿: りせ | 2019年7月23日 (火) 22:53

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