« 醍醐寺三宝院庭園2019 | トップページ | 晴明神社 安倍晴明と桔梗咲く境内 »

2019年7月 5日 (金)

瑞泉寺 秀次事件と角倉了以

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jnw_7125a
※写真は全てクリックで拡大します。

先日から木屋町通を南に歩いて三条通まで来ました。今日は交差点の南東にある瑞泉寺に立ち寄ります。

「瑞泉寺」は山号を慈舟山という浄土宗西山禅林寺派の寺院で、豊臣秀吉の甥・秀次とその一族を弔うために建立されました。山門を入った右に大日如来の石仏が祀られています。

Jnw_6966a

天下を統一した豊臣秀吉は実子に恵まれず、姉の子の秀次を養子にして、関白太政大臣と豊臣家の家督を譲りました。(正面に休憩所があり、秀次事件に関する様々な資料がおいてあります。)

Jnw_6970a

ところが秀吉の愛妾「淀君」に秀頼が誕生したころから、実子を盲愛する老齢の秀吉に秀次は次第に疎んじられました。

Jnw_7060a

さらに石田三成らの策謀もあって、ついに文禄4年(1595)7月、謀反の罪状を理由に高野山へ追放され、同月15日に自刃させられてしまいました。(庫裏には墓参りのためのお花が用意してあります。)

Jnw_7069a

秀次の首は京に運ばれ、8月2日に三条大橋西南の河原の刑場の土壇の上に西向きに据え置かれました。(休憩所の前の道の横にお堂や本堂、奥に墓があります。)

Jnw_6978a

この日の早朝から死装束にをまとった秀次の一族、すなわち若君4人と姫君、側室として仕えた若く美しい女性たち34人は、市中引き廻わしの後、三条河原に運ばれました。

Jnw_7065a

やがて秀次の首と涙の対面をはたした一族は一人ずつ殺され、鴨川は朱色に染まったといいます。(明治の廃仏毀釈の中で天皇家にはばかって瓦の菊花紋がセメントで塗りつぶされています。)

Jnw_7053a

戦国の世では主君とともに死んでいった子女は数多くいますが、このように子供を含めて罪もない一族の処刑は例がありません。「書院の玄関」

Jnw_7063a

全ての遺骸は刑場に掘られた大穴に投げ込まれ、その跡には四角錘の大きな塚が築かれました。そしてその塚の頂上に秀次の首を納めた「石びつ」を据え、三条大橋を渡る人々への見せしめとしました。

Jnw_7050a

しかしながら塚はすでに鴨川の洪水によって著しく壊れ、草に埋もれてもはや一本の花をたむける人もないほどに荒廃していました。「本堂」はかって一族の塚があった場所に建っています。

Jnw_6994a

その後、角倉了以は高瀬川を開墾してこの地まで到達しました。秀次とその一族に同情した了以は、浄土宗西山派の立空桂叔和尚と相談して、荒れた墓域を整理して一族の菩提を永く弔うための寺を建立することとしました。後に建てられた「宝篋印塔」。

Jnw_7036a

そして慶長15年(1610)和尚を開山として、山号を高瀬川を往来する船に因んで慈舟山とし、寺名を京極誓願寺の中興教山上人が新たに秀次へ贈った法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」からとって瑞泉寺としました。

Jnw_7040a

その後70年を経た天和3年(1683)新たに角倉家より寄進があり、本堂をはじめ現在の瑞泉寺の規模に近い堂宇が完成しました。本堂には本尊の阿弥陀如来、創建の功労者、了以と長男の素庵の2体の像が安置されています。

Jnw_7042a

突き当りに「中島町の地蔵尊」が祀られています。中島町は古い地名で、この付近が鴨川の中の島(中州)だったことを示しています。角倉了以はその西側の流れを高瀬川として利用し、中州を木屋町として整備しました。

Jnw_7023a

松下幸之助氏らによって結成された財団法人「豊公会」により、昭和17年(1942)一族39名および秀次に殉死した家臣10名の、合計49基の五輪の石塔が新たに造られ、下の墓所に、中央の秀次の墓石を両側から寄り添うかたちに建てられました。

Jnw_7021a

中央の秀次の墓の中央に、かって首をおさめた石びつが組み込まれています。石びつには「七月十五日」の日付と「秀次悪逆」と刻まれていましたが、その4文字は角倉了以らにより削られたといいます。

Jnw_7011a

駒姫は出羽の大名・最上義光の二女で、関白であった秀次の側室となるために京に嫁いで来て事件に巻き込まれました。当時15歳でまだ秀次の顔を見たこともなかったといいます。

Jnw_7008a

この秀次事件はまだ完全には解明されていません。かっていわれた秀次の乱心や反逆は、一族の処刑を取り繕うための口実であったと考えられています。

Jnw_7005a

墓の右隣に「地蔵堂」があります。大雲院の貞安上人が処刑場に自ら運び、処刑される一人ひとりにその前で引導を授けたという引導地蔵尊が安置されています。

Jnw_6980a

堂内に豊公会のもうひとつの事業であった、一族および家臣達の姿を写す49体の極彩色の京人形が安置されています。豊公会は秀吉を敬愛する団体ですが、秀次一族没後350年の記念事業の一環で、晩年の秀吉の罪滅ぼしをしました。

Jnw_6983a

実は、角倉了以の実弟・吉田宗恂は後陽成天皇の脈をとるほど著名な医師で、秀次の家臣でもありました。事件の連座を免れた宗恂は慶長15年に没し、瑞泉寺を建立したのはその1周忌でもありました。

Jnw_7034a

寺は天明8年(1788)の大火「どんぐり焼」によって焼失して、本堂は17年後の文化2年(1805)、書院は天保4年(1811)に再建され現在に至っています。

Jnw_7057a

秀次事件によって晩年の秀吉の求心力が弱まり、一族の血を引くのが淀君が生んだ秀頼だけになりました。多くの歴史家は、この事件によって豊臣家滅亡のカウントダウンが始まったと考えています。

Jnw_7131a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jnw_6974a 

|

« 醍醐寺三宝院庭園2019 | トップページ | 晴明神社 安倍晴明と桔梗咲く境内 »

コメント

いつも思うのですが、石田三成がいなければ、歴史はまた
変わっていたでしょうね。
家康にとっては、全てのことがラッキーだったと思います。

投稿: munixyu | 2019年7月 5日 (金) 14:00

★munixyuさん こんばんは♪
過去の歴史で、もしXXだったらどうなっていただろうか?という問いは、現在では重要な課題だそうですね。歴史は偉人たちが作ってきた必然のものではなく、様々な偶然が積み重なって現在に至ります。このような問いかけは、現在から将来にかけてどのような道を選択すべきかの参考にもなります。

投稿: りせ | 2019年7月 7日 (日) 23:07

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 醍醐寺三宝院庭園2019 | トップページ | 晴明神社 安倍晴明と桔梗咲く境内 »