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2019年7月18日 (木)

祇園祭2019 前祭山鉾巡行 前半

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日行われた祇園祭(前祭)の山鉾巡行を見てきました(いつもの通り河原町御池の交差点です)。今日は23基のうち12基で、主として御神体にまつわるエピソードを紹介します。

「長刀鉾」 くじ取らずとして毎年巡行の先頭を行き、現在では唯一となった生稚児が乗っています。鉾先の大長刀(おおなぎなた)はかって平安時代の刀工・三条小鍛冶宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したものでした。

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大永2年(1522)に疫病が流行ったとき、神託によって当町で長刀を飾ったところ治まったそうです。ただし、初代は行方不明になり三条長吉作の長刀を保存、複製品を鉾頭にしています。「天王座」には和泉小次郎親衡の人形を祀っています。

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「蟷螂山(とうろうやま)」 宵々山の記事で紹介したように、屋根のカマキリがご神体で「カマキリが無謀にも自分の斧で大きな車の車輪に立ち向かう」という中国の故事にちなんでいます。(カラクリで羽根を広げています。)

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南北朝時代、足利義詮軍に挑んで戦死した当町在住の公卿・四条隆資の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようだといわれ、卿の死後25年目に住民の陳外郎大年宗奇が四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのがはじまりとされます。

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「芦刈山」 先日の記事のように、貧しさのため夫から去り宮中に仕えて高貴な方の後妻となった女が、かっての夫が気がかりで探し歩き、難波の浦で芦を刈っている男を見かけました。

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男は自分の身を恥じて隠れますが、妻の呼びかけに和歌を詠み交わすうちに心も打ち解け、再びめでたく結ばれます。装束も改めた男は従者の勧めで爽やかに祝儀の舞を舞い、夫婦揃って都へ帰ってゆきます。

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「木賊山 (とくさやま)」 都の僧が父に対面したいという少年を連れて、故郷の信濃の国の園原へ下りました。そこで、木賊を刈る老人に会い、園原の木賊が歌にもなっていることなどを話して打ち解けます。

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僧と少年を我が家へ案内して、酒を呑んだ老人は我が子を誘拐されて旅舎を営んで行方を探している話をします。少年は自らを名乗り再会を喜びあい、その後我が家を仏法流布の寺としたそうです。

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「函谷鉾 (かんこほこ)」 鉾の名は中国古代の孟嘗君の故事に由来します。函谷関(かんこくかん)は、秦の皇帝が東方からの侵入を防ぐため、中国河南省の渓谷に設置した関所です。

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秦の昭襄王の討手から逃れた孟嘗君が、鶏が鳴かないと開かない関の門を、その鳴き声が上手な部下によって脱出したという故事です。ここから、鶏鳴狗盗(けいめいくとう)ということわざが生まれました。

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鶏の鳴きまねをして人を欺いたり、狗(いぬ)のように忍び込んで物を盗むことしかできない下賤の者という言葉ですが、転じて、とるにたらない小人物でも使い方によっては役にたつということわざになりました。

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「郭巨山 (かっきょやま)」 貧困に苦しんだ中国・後漢の郭巨が子を捨てようとしたところ土中から黄金がでてきて驚いた場面で、童子は右手に唐団扇、左手に紅白の大輪の牡丹を持っています。

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郭巨は、家が貧しくて母が食を減らすのを見て、一子を埋めようとして穴を掘ったところ、「天、孝子郭巨に賜う」と書いてある黄金の釜が現われました。当時は親孝行の方が重要だと考えられていたようです。

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「綾傘鉾」 大きな傘とお囃子から構成され、剣鉾や鎌鉾などとともに現在の山鉾より古い祭りの形態だといわれています。(右の傘の上の御神体の鶏は、金の卵を片足に持っています。)

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古くは、疫神や災いなどの退散を願う「ハヤス」という行為から出た民衆の踊りがもとで、仮装して太鼓などの打楽器を鳴らし踊りながら歩くことが特徴です。棒振り囃子は独特のお囃子に合わせて踊り、疫病退散を祈願します。

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祭りの古い形態は、今宮神社のやすらい祭や京都の周辺地域の剣鉾にも残っていて、祇園祭のお迎え提灯や葵祭でも花笠(風流傘)が見られます。

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「伯牙山」 中国春秋時代の琴の名人伯牙が、琴の聞き手であった友人の鍾子期の死を聞いて、斧で琴を壊そうとしている場面をあらわし、かっては琴破山(ことわりやま)と呼ばれました。

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弦も断ったとされ「伯牙絶弦」の故事として知られます。親友のことを「知音」というのはこの故事に由来しているそうです。水星のクレーターは大半が芸術家の名前に由来し、Po Ya(ポーヤ、伯牙)があります。

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「菊水鉾」 町内に古くからあった菊水井は、謡曲「菊慈童」で「菊の葉の露を飲んで不老長生になった」という故事に因んで名付けられました。

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寵愛されていた美少年・慈童は、穆王(ぼくおう)の枕をまたいだ罪で酈縣山(れっけんざん)に捨てられました。慈童は仏徳を讃える書を記した枕を賜り、それを忘れないように菊の葉に書き写しました。

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この菊の葉の上に集まった露を飲むと慈童は不老不死になりました。後に魏の文帝の命により臣下が酈縣山の奥へ薬水の調査に訪れ、七百歳になる慈童を発見しました。観世流以外では「枕慈童」という名前です。

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「油天神山」 古くから風早町に祀られていた天神像(菅原道真)を勧請して、風早町が油小路通にあることから油天神山となりました。勧請の日が丑の日だったので、「牛天神山」とも呼ばれます。

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町名は藤原北家閑院流姉小路支流の公家・風早家(かざはやけ)に由来します。山上の祠に祀られているのは、風早家に伝来し後に町内に祀られていた天神像(1630年製作)です。

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「太子山」 聖徳太子が杉の巨木で四天王寺(六角堂)を建てたという故事にちなんで、山の中で唯一真杉を建てます。ただし、ここからは松と杉の違いが分かりません。

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聖徳太子は587年、四天王寺建立の材木を求めて京都盆地を訪れました。太子が池で身を清めるため念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、その願いに応じて六角形を建てて安置したといわれます。

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「保昌山」 丹後守藤原保昌が、紫宸殿の庭に忍び込んで北面の武士に矢を射られながらも紅梅を手折って、和泉式部に差し出す場面です。明治初年までは「花盗人山(はなぬすっとやま)」と呼ばれました。

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保昌は武勇に秀で、源頼信・平維衡・平致頼らとともに道長四天王と称されました。時の権力者の道長の薦めもあり和泉式部と結婚、丹後に赴任しました。

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しかし、丹後では弓の名手の保昌は狩りばかりをして妻を顧みなかったようです。悩んだ和泉式部が貴船神社に祈願すると夫婦仲が戻ったそうです。

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コメント

今年は、少し涼しい雰囲気でよかったですね。
いつもは、もっと暑そうだったと思います。
のんびりとした時間の流れを感じます。

投稿: munixyu | 2019年7月18日 (木) 18:03

★munixyuさん こんばんは♪
確かに、いつもはもっと暑かった気がします。冷夏といわれるのが本当なのかも知れませんね。

投稿: りせ | 2019年7月20日 (土) 02:28

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