« 伏見稲荷大社 宵宮祭2019 | トップページ | 祇園祭2019 後祭宵々山 »

2019年7月22日 (月)

建仁寺 境内北西と境外の塔頭

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jnw_9716a
※写真は全てクリックで拡大します。

今回の建仁寺の記事の最後は、境内の北西の塔頭と祇園南にある4つの塔頭を紹介します。一昨日の記事では境内の南西隅にある「禅居庵」まで来ました。

「禅居庵」は小笠原貞宗が元弘年間(1331-33)に創建、建仁寺第23世・清拙正澄(せいせつしょうちょう、1274-1339)が開山として晩年退隠しました。鎮守の摩利支天堂があります。

Jnw_9695a

禅居庵から南北の道を北に行くと、右手に三門の「望闕楼」が見えてきます。三門とは三解脱門の略で、「空」「無相」「無作」という悟りに至る三つの境地を象徴する門です。

Jnw_9711a

三門は禅宗寺院の本山などに見られ、多くは二重門で楼上には釈迦如来、十六羅漢、釈迦の主要な弟子らが安置されます。これらの尊像は、三解脱のそれぞれの象徴となっています。

Jnw_9729a

一方、「山門」は寺院の通常の門を表し、山は、山号、一山、五山、貴山、などの言葉に見られるように寺院のことです。仏教が盛んとなった中国の隋、唐の時代に、所在地で同名の寺院を区別したのが始まりといわれています。

Jnw_9743a

その後の寺院の盛衰のなかで、山中に寺院を置くことが多かった禅宗寺院が強大となりました。宋の太祖は、五山十刹制度を整備してピラミッド型の組織を作り上げて、寺院の統制を強化しました。

Jnw_9774a

「久昌院」は、江戸時代初めの慶長13年(1608)美濃加納(岐阜市)城主の奥平美作守(みまさかのかみ)信昌が、三江紹益(さんこうじょうえき、1572-1650)を開基として創建した奥平家の菩提寺、久昌院は信昌の法名です。

Jnw_9751a

「堆雲軒」 境内の南東にある塔頭・霊洞院(現在は僧堂)の正仲が同院の隠退所として貞和2年(1346)に創建。あらためて高山慈照を追請して開基としました。室町時代の天文法華の乱(1536年)で焼失、延宝8年(1680)に再建。

Jnw_9821a

右手に方丈と法堂を結ぶ渡り廊下が見えます。方丈前庭にある唐門の前まで寄り道します。

Jnw_9828a

「向唐門」(府指定文化財)江戸時代前期の寛文年間(1661-1673年)建造、当初の屋根は杮葺き、後に瓦葺きに変えられましたが、軽量化のため平成21年銅板葺きとなりました。

Jnw_9831a

南北の道に戻り、北に行くと左(西)に門があります。一旦外に出て眺めます。

Jnw_9843a

「惣門」(西門) 江戸時代後期の文化年間(1804-1818)建造。門の構造は、四脚門、切妻造、本瓦葺で、府指定文化財。惣門は禅宗寺院の表門のことで、かってはこの大和大路通がメインストリートでした。

Jnw_9860a

元の南北の道に戻って、さらに北に行きます。右の塀の中には方丈や茶室(東陽坊)などがあります。左は「興雲庵」で、初め臥雲庵と号した建仁寺の塔頭で、開基は鎌倉時代の石梁仁恭(せきりょうにんきょう、1266-1335)です。

Jnw_9863a

石梁は台州(中国浙江省)に生ま、一山一寧(いっさんいちねい)の甥で、1299年に一山に従い来日しました。一山らは2度の元寇の失敗の後、元から貢物の催促の国使として日本に派遣されました。

Jnw_9870a

一山らは一時幽閉されましたが日本の僧の評判が高く、執権北条貞時は一山に帰依して建長寺の住持としました。後に後宇多法皇によって京都に招かれ南禅寺3世となり、南禅院に葬られました。(団栗通に面して、陀枳尼天堂の入口があります。)

Jnw_9872a

団栗通は建仁寺の北の通りで、東に行くと途中にT字路があります。右には「光保育園」があり、北に行くと。

Jnw_9891a

「正伝永源院」 宋から渡来した義翁紹仁(ぎおうじょうにん)(-1281)が開いた正伝院に始まり、天文以降荒廃。1618年に織田長益(有楽斎)が再建。明治6年、旧永源庵の地に移されたときに、現在の寺号となりました。

Jnw_9876a

団栗通に戻り、東に行くと花見小路に突き当たります。少し南に行って建仁寺の北門の前に境外塔頭の大中院があります。

Jnw_9097a

「大中院」 康永元年(1342)に東海竺源(じくげん)を開基として創建、応仁の乱で荒廃。承応4年(1655)に雪窓霊玉(せっそうれいぎょく)が中興、文化年中(1804ー18)に景和竺応・全室慈保が再建しました。

Jnw_9880a

先ほどの正伝永源院の前の南北の道を北に行くと「初音小路」に突き当ります。右に常光院の山門が見えます。

Jnw_9897a

「常光院」 開基は温仲宗純(-1511)、1604年三江紹益に帰依した木下家定(ねねの兄)が堂舍を再建、1493年に今熊野から建仁寺に移した福聚院を合し、明治5年には春松軒も吸収しました。木下家の菩提寺です。

Jnw_9900a

「清住院」 開基は蘭洲良芳(りょうほう)(1305-84)。天文年間の火災で焼失。1653年に茂源紹柏が再興。明治6年に祇園歌舞練場に改造され大正2年花見小路に歌舞練場が移転するまで都をどりが行われました。

Jnw_9939a

ところで、「塔頭」は禅宗寺院において、祖師や高僧の死後に弟子が徳を慕い建てた塔(墓塔)が始まりとされ、塔の中でも筆頭とされることから塔頭と呼ばれました。(常光院の隣に「延命地蔵尊」が祀られています。)

Jnw_9913a

建仁寺の塔頭には「院」「庵」「寺」「軒」の称号が付いていました。多くの場合、院は大名などが寄進した墓所、庵は僧の住んだ庵、寺は民衆が寄進あるいは別の寺だったもの、軒は信徒が寄進した建物(例えば茶室)だったそうです。

Jnw_9935a

明治5年の上知令まで四条通から建仁寺にかけての一帯(祇園南)は建仁寺の境内でした。この延命地蔵の由緒は分かりませんが、建仁寺と何らかの関わりがあると考えられます。

Jnw_9928a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jnw_9909a

|

« 伏見稲荷大社 宵宮祭2019 | トップページ | 祇園祭2019 後祭宵々山 »

コメント

梅雨明けが待ち遠しくなる天気ですね。
写真からも、梅雨のジメジメ感が伝わってきます。

投稿: munixyu | 2019年7月22日 (月) 13:45

★munixyuさん こんばんは♪
昨日と今日、強い雨が降りました。梅雨明けの前兆だといいのですが。

投稿: りせ | 2019年7月23日 (火) 23:03

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 伏見稲荷大社 宵宮祭2019 | トップページ | 祇園祭2019 後祭宵々山 »