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2019年6月10日 (月)

金福寺 2019初夏

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の本願寺北山別院の南に金福寺があります。「金福寺」は平安時代の864年、円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ、安恵(あんね)僧都が創建したとされ、当初は天台宗の寺でした。石段の上に山門があります。

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鎌倉時代から室町時代にかけて荒廃しましたが、江戸時代の前期に圓光寺の鉄舟和尚により再興され、以後臨済宗南禅寺派に属しました。その際、金福寺は圓光寺の末寺になりました。(中門をくぐると左に本堂の「残照亭」があります。)

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鉄舟は松尾芭蕉と親交があり、貞亨年間(1684-1688)に芭蕉が京都を訪れたとき金福寺にも宿泊したといいます。芭蕉が泊まった建物は「芭蕉庵」と呼ばれましたが、後に荒廃しました。(本堂に上がりました。)

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江戸時代中期の1776年俳人・画家の与謝蕪村は住持・松宗(しょうそう)の了承を得て、荒廃していた芭蕉庵を再建しました。本堂の前庭は江戸時代中頃に作庭された枯山水庭園で、白砂の周囲を築山やサツキが囲みます。

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蕪村は俳句の先師として芭蕉を尊敬していて、足跡をたどって東北地方を旅したほどでした。本堂には芭蕉や蕪村に関する様々な資料が展示してあります。

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床の間に「蕪村筆 芭蕉翁像」がかかっています。この肖像は当寺のために蕪村が1779年に描いたもので、芭蕉の肖像画として最も優れているといわれています。

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幕末の1862年には、「村山たか」が入寺して尼僧となり、ここで生涯を終えました。たかは、1809年近江国にある寺の娘として生まれましたが、18歳の時に当時の藩主・井伊直亮の侍女となり、20歳になり京都に上って祇園で芸妓となりました。 

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男子が生まれたのを機に、生まれ故郷の彦根に戻りました。そして彦根城下で部屋住みの井伊直弼と出会い愛人関係となり、またその数年後に直弼を通じて出会った国学者の長野主膳とも深い関係になりました。下は「長野主膳像」。

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やがて直弼は大老となり江戸に移り、1858年に安政の大獄で尊攘派を弾圧します。長野は直弼の懐刀として恐れられ「京都大老」と呼ばれました。たかは京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとなり、二人に協力しました。

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ところが、直弼は1860年の桜田門外の変で暗殺され、1862年長州と土佐藩士は報復のためにたかを捕らえ、三条大橋に尼姿で晒しました。一方、長野は彦根で斬首、たかの息子も粟田口で斬られました。『文久秘録』の「たか女晒し者の図」。

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3日後、たかは宝鏡寺の尼僧に助けられ、清凉寺、圓光寺を経て、金福寺の尼となりました。たかは、晩年の14年間を金福寺で直弼と長野、息子の菩提を弔いながら過ごしました。山門の脇に慶応3年(1867)にたかが建てた弁天堂があります。

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たかが生まれたのは己巳(きみ)の年でした。巳(白い蛇)は弁財天の使いとされるので、たかは弁天様のおかげで命を救われたとして深く信仰しました。祀られている弁財天の写真が置いてありました。

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本堂を出て、高台にある芭蕉庵を見に行きます。「松尾芭蕉」(1644-1694)は、伊賀国上野に生まれ、藤堂藩伊賀支城付の侍大将の家の料理人として仕えました。その若君・藤堂良忠と共に俳諧をたしなみ、北村季吟に学んで俳号を宗房としました。

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1680年に深川に草庵「芭蕉庵」を結んで隠棲生活に入りましたが、1682年に天和の大火(八百屋お七の火事)で焼失。庭の隅に句碑があります。蕪村「花守は野守に劣る今日の月」、百池「西と見て日は入りにけり春の海」

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庵は翌年再建されましたが、隠棲しながら俳諧師を務めることにはかなさを感じ、翌年から諸国に旅に出かけました。(サツキは開花していましたが、ここ数年は花の付きがよくないようです。)

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46歳頃には京都を訪れ、金福寺裏の芭蕉庵、嵯峨の落柿舎、円山の芭蕉堂などを訪れました。その後、旅の途中の大坂御堂筋の花屋の裏座敷で亡くなりました。最後の句が「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。

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「与謝蕪村」(1716-1784)は摂津国に生まれ、1737年に江戸に出て早野巴人(はじん)に師事し俳諧を学びました。1742年には憧れの松尾芭蕉の足跡をたどって、関東から東北地方を周りました。(再建された芭蕉菴)

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1754年には丹後与謝、讃岐などを旅して、1757年42歳の頃に京都の四条烏丸付近に住んで与謝を名乗りました。蕪村を中心に結社「三葉社」が生まれ、夜半亭2世を継ぎました。早野巴人は夜半亭を名乗っていました。

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蕪村がここで詠んだ句「三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の聲」、芭蕉庵からは市内北部から愛宕山まで見えます。

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「奥の細道屏風図」や池野大雅との合作「十便十宜帳」を描き、江戸俳諧の中興の祖、俳画の創始者といわれています。芭蕉庵ではしばしば句会を催しました。ここで詠んだ句をもう一首「冬ちかし時雨の雲もこゝよりぞ」。

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芭蕉庵の横に芭蕉がここで詠んだ句碑があります。「うき我を淋しがらせよかんこどり」、「うき我」とはふさぎ込んでいる自分という意味です。

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その奥の「芭蕉水」 鉄舟が芭蕉をもてなしたという井戸です。山の斜面ですが今でも水が湧いていました。

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井戸の横に「芭蕉の碑」があります。1776年に蕪村や俳人・樋口道立(どうりゅう)が建て、芭蕉の生涯を讃えた文が刻んであります。蕪村は碑の建立時に「我も死して 碑に辺(ほとり)せむ 枯尾花」と詠み遺言としました。

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蕪村の遺言のように、弟子たちは斜面を上ったところに蕪村の墓を造りました。墓にいく途中に村山たかの参り墓があります。本墓は圓光寺の墓地の奥にあります。

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蕪村とその門下・江森月居の墓、月居の句「朝霧にまぎれて出む君が門」、「敗軍の五六騎蓑をうちかづき」。蕪村の墓の周囲には月居以外にも門下や京都の俳人の墓や句碑があります。

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墓への道の途中に見晴らしのよい場所があります。1935年に高浜虚子は蕪村の墓を訪ね、このあたりで「徂(ゆ)く春や京をひと目の墓どころ」と詠みました。左奥は愛宕山、右は船形、手前の緑の線は賀茂川の並木です。

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コメント

ここの庭は、なんとなく変わっていますよね。
どこがどうというわけではありませんが、空間が現代的なのかもしれませんね。
それにしても俳句の話が多いところですね。
気がつけば夕方になっているのかもしれません。

投稿: munixyu | 2019年6月10日 (月) 14:05

★munixyuさん こんばんは♪
お庭は奥行がなく、その奥は芭蕉菴や蕪村の墓に行く通路になっています。比叡山の麓、とうよりは少し上ったところにあり、かってはお寺の周囲の雰囲気が俳句の題材になったのでしょう。

投稿: りせ | 2019年6月11日 (火) 22:48

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