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2019年6月15日 (土)

無鄰菴 新緑の南禅寺界隈庭園

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の平安神宮を出て無鄰菴に来ました。上は瓢亭の横の通りにある表門で、左にある拝観受付から、その右にある木戸を通り母屋に上がります。下はパンフレットの図で、3方を道路で囲まれた東西に長い敷地は3135㎡(950坪)あります。

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「無鄰菴」は、明治・大正の政治家・山縣有朋が、明治27年(1896)から同29年にかけて造営した別荘です。母屋は木造平屋の桟瓦葺(一部は2階建、銅板葺)。下は母屋から南側の眺めで、手前に小川が流れ、右に最後に訪れる洋館があります。

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母屋は明治28年(1895)に建てられ、明治31年と大正期に改造されています。上と下は次の間付き8畳の「居間兼客座敷」です。次の間とは控えの間のことです。下は東側でこれから歩く庭園が見えます。

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山縣有朋は、別荘の主体は庭園で座敷から庭を鑑賞することに重点を置いていたため、母屋は簡素な造りになっています。隣の部屋は次の間付き10畳の「会議の間」です。こちらからはより庭園の眺めがよくなります。

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この辺りはかって南禅寺の境内でしたが、明治政府のの上知令によってその5分の4が国有地となりました。この部屋は「庭園カフェ」となっていて、ドリンク各種とともにオリジナル三笠(どら焼き)があります。 下は坪庭。

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東京に首都が移され衰退した京都を復興させるために、京都府知事・北垣国道は、明治18年(1885) 琵琶湖疏水工事に着工して岡崎地域の開発に乗り出しました。(南の方)

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当初は琵琶湖から引いた水で水車を回し、その動力を工場に利用してこの辺りを一大工業地帯にする計画でした。(庭に降ります。)

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ところが、工事の途中で実用化されつつあった水力発電所を建設することになり、遠くに送電できることからこの辺りの工業用地は別荘地として売り出されました。東から流れてきた水は緩やかな「瀬落」によって心地よい水音を響かせませす。

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明治23年に琵琶湖疏水が完成し、翌年水力発電所も稼働し始めました。電力による工場だけでなく、日本で最初の市外電車や街灯、インクラインなど京都の近代化が進みました。

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庭園は山縣自らの指示によって、7代目小川治兵衛が作庭しました。東山を借景として、手前(西)は芝生が広がる開放的な空間となっていて、里山をイメージします。

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山縣は古来から庭に使われてきた苔よりも芝生を好んだといわれます。また、松や梅ではなく、普通庭木としては使わない樅(もみ)をとり入れるように治兵衛に命じました。(小川の上流は池となっていて、左には大きな石があります。)

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しかし、造営からしばらくすると高湿度の環境のもとで苔が優勢になりました。山縣は「苔の青みたる中に名もしらぬ草の花の咲出たるもめつらし」と苔の美も受け入れたそうです。(林の中では苔地が広がっています。)

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現在では約50種類の苔が見られるそうです。この辺りは、鬱蒼とした森林の中に池があり、ちょっとした高原の雰囲気です。

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池の中央で亀が甲羅干し。

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更に上流には池に注ぎ込む小川に「沢飛石」があります。

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沢飛石の上から、下流の方が見渡せます。

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「三段の滝」 流れの源は琵琶湖疏水の水です。蹴上との間にインクラインがありますが、サイフォンの原理で水を導いているそうです。この辺りは深い山の雰囲気です。ここから散策路を引き返します。

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山縣有朋は長州藩の下級武士の家に生まれ、吉田松陰の松下村塾で学び、高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文らと親交を結びました。高杉晋作が創設した奇兵隊に参加して頭角をあらわし、4代目の司令官となり幕末維新期の騒乱で活躍します。

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山縣は明治政府の軍政を担い陸軍を創設する一方、第3代内閣総理大臣となり伊藤博文とともに政治体制の近代化に貢献しました。

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「御賜稚松乃記」の石碑には山縣の庭園観が歌として刻まれています。「春はあけはなるゝ山の端の景色はさらなり。夏は・・・」、この言葉は庭園の育成管理の根幹ともなっているそうです。

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「茶室」は明治28年(1895)頃に移築。主座敷は三畳台目で、古田織部好みの代表的茶室の薮内流の燕庵を模して造られています。移築に伴って勾欄の付いた広縁に作り替え、山縣自身が「月見台」と名付けてそこからの眺めを楽しんだと伝わります。

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琵琶湖疏水工事の頃、山縣は内務大臣を務め、市町村制の公布など地方自治の形成に尽力しました。疏水工事も中央政府との調整役を果たし、竣工式にも出席しています。疏水の水は感謝のため京都府が便宜を図ったといわれています。

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無鄰菴は昭和16年(1941)に京都市に譲渡され、昭和26年(1951)に近代の名園として国の名勝に指定されました。京都市では、母屋の2階と茶室の貸し出しを行っているそうです。また、閉場時間後の一棟貸も可能だそうです。

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敷地の南西に明治31年(1898)に完成した煉瓦造り2階建ての「洋館」があります。一階は、無鄰菴の造営工事、山縣有朋、7代目小川治兵衛などの資料とともに、現在の庭園の維持管理方法の展示が行われています。

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特別展示「Mosslight – LED 苔の魅力にひたる」が行われていました。苔たちは、ガラス瓶の中でLED照明の光と水だけで何年も生き続け、自然と人の技術が織りなす景色を楽しむことができるそうです。

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現在無鄰菴の庭園は植彌加藤造園によって手入れされています。山縣有朋の作庭当初の構想を調べ、その想いをくみ取りつつ、現代の気候変動や感覚の変化を折り込んで「生きている庭を育む」という方針だそうです。

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2階には江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があります。ここで、明治36年(1903)4月21日元老・山県有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎によって、東アジアに関する「無鄰菴会議」が開かれました。

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満州や朝鮮に進出していた日本に対し、強硬な南下政策を進める露国を討つべしと世論が高まっていた時期でした。会議では「満韓交換論」に基づいて対露直接交渉の方針が決められました。隣の小部屋に山縣愛用の書見台つき椅子とテーブルがあります。

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ところで、「無鄰菴」という山縣邸は三つあります。最初は郷里の長州・下関の草庵で、名前の由来はこの草菴に隣家がないこととされます。 第二の無鄰菴は木屋町二条に購入した別邸で、第三の無鄰菴がこの別邸です。

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コメント

亀の甲羅干しは、のんびり感がいいですよね。
苔の世界もまた不思議な世界ですね。
神秘的だと思います。

投稿: munixyu | 2019年6月15日 (土) 18:28

★munixyuさん こんばんは♪
無鄰菴は、外から見ると広くない敷地ですが、中の庭園は別世界です。小川に沿って歩くと、里山から深山まで風景が変わってゆくのが分かります。

投稿: りせ | 2019年6月16日 (日) 23:46

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