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2019年6月 5日 (水)

詩仙堂 初夏の庭園と石川丈山

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は詩仙堂に行ってきました。「詩仙堂」は、山号を六六山、正式名称を丈山寺という曹洞宗の寺院で、永平寺の直末寺です。上の「小有洞」という名の山門には石川丈山筆の扁額が掲げられています。

下は「中門」で、その向うは3階建ての本堂、左に書院と拝観受付の庫裡があります。

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江戸時代の文人・石川丈山が、寛永18年(1641)隠棲のため建立した山荘で、山際のでこぼこした土地に建つので凹凸窠
(おうとつか)と名付けられました。(本堂の1階から前庭、サツキが咲きかけていました。)

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丈山は安土・桃山時代の1583年三河・徳川家の家臣の家に生まれました。武芸に優れ、関ヶ原の戦い(1600年)で戦功をあげ家康の信望を得ました。(右に蹲があります。)

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ところが、旗本として出陣した大坂夏の陣(1615年)では、禁じられていた先陣争いをして家康の機嫌をそこね、浪人となってしまいました。叔父の本多正信は何とかとりなそうとしましたが、丈山は髪を切って妙心寺に入って隠退しました。

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そして、儒学者・藤原惺窩(せいか)門下となり儒学を学びました。この頃、文武に優れるとの評判になり、各所から仕官の誘いがありましたが、乗り気ではありませんでした(書院から庭に降ります。)

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「洗蒙瀑(せんもうばく)」という小さな滝があります。丈山の作庭時からあり、蒙昧(物事の道理に疎いこと)を洗い流す滝という意味だそうです。 滝からの水が庭を流れ下ります。

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しかしながら病気がちの母を養うために、41歳のとき和歌山の浅野家に仕官し、その後浅野家の転封に従って安芸(広島県)に赴き、そこで13年ほど過ごしました。(小さな石段を下ります。)

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母が亡くなると引退を願い出るも許されず、強引に浅野家を去って京に出て、寛永13年(1636)相国寺の近くに睡竹堂を建てて隠棲し始めました。(庭園は3段になっていて、ここは中段です。)

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その後寛永18年(1641)に、洛北の一乗寺村に適地を見つけ、凹凸窠を建て終(ついえ)の棲家と定めました。

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「鹿(しし)おどし」 添水あるいは僧都ともよばれます。農民が猪や雀をおどすために考えたもので、この地が山麓にあるので、鹿や猪が庭を荒らすのを防ぐために設けられたそうです。庭の趣向として、丈山が初めて用いたともいわれています。

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丈山は、洛東の隠者・木下長嘯子の歌仙堂をまねて小堂を建て、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内2階の四方の小壁に9面ずつ掲げました。いつしか、凹凸窠は詩仙堂の名で知られるようになりました。

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丈山は、作庭にも長じたといわれ、桂離宮や東本願寺枳殻邸(渉成園)の庭園は丈山の手が入っていると伝えられています。清浄を好んで、邸内に一葉の塵も落ちていないほどに、隅々まで掃き清めるのを日課としたそうです。それはいまも守られているとか。(小さな池があります。)

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丈山の庵には、林羅山、尾形乾山、霊元天皇などが訪れ、角倉素庵や小堀遠州とも親交があったといいます。中でも親しく交わったのが、松花堂昭乗と佐川田喜六で、一休寺(酬恩庵)の庭園はこの3人の合作によると伝ええられています。

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後水尾上皇からお召しがあったとき、「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」と詠んで断った話はよく知られています。(向こうに見える茶室「残月軒」は1950年代に建てられ、茶席からみる庭園や紅葉が美しいといわれています。)

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丈山は清貧を旨として学問に没頭し、この庵で30数年を過ごして寛文12年(1672年)に90歳で亡くなりました。生涯独身でした。(残月軒の横にある防火水槽が天然記念物のモリアオガエルの生息地になっています。)

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上の写真の木の枝の白い部分が卵です。京都の山沿いは湿地が多く、モリアオガエルの一大生息地だったそうです。今ではいくつかの寺社の境内で見られるだけになりました。ちょっとした竹藪もあります。

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下段の西の端に新しく建てられた客殿・座禅堂の「十方明峰閣」があります。閉じられていて近づけませんが、公開されるときもあるようです。

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丈山没後 詩仙堂は一時荒廃しましたが、丈山の養子・石川十太夫の子・数馬から門人の儒学者・平岩仙桂が受け継ぎました。江戸時代後期の1821年、丈山150年御遠忌に際して、建物が修復され、書院が増築、庭園も改修されました。

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昭和3年(1928)、建物と庭園は国の史跡に指定されました。下段の西南は広場になっていて、山の斜面に句碑があります。大正から昭和にかけての俳人・鈴鹿野風呂「さにづらふ  紅葉の雨の  詩仙堂」。

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昨年気が付いたのですが、斜面にお地蔵さんが置かれていました。今年はこの姿のお地蔵さんが4組、9体見つかりました。増えているかも知れません。いずれも同じ石彫家の作品だと思われます。

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一番奥に「供養塔」があります。信徒の永代供養や、宗派を問わず分骨供養としてここに納骨することができるそうです。

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供養塔の前に、新たに可愛いお地蔵さんが置かれていました。三千院の大原石仏の前の石の上にある2体の石仏(わらべ地蔵ではありません)と同じ作者だと思いますが、名前が分かりません。

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コメント

観光客が一人も映っていませんが、
何時頃に行きました??

投稿: maanbu | 2019年6月 5日 (水) 11:51

戦に関する、味方同士の違反や争いは厳しいですよね。
秀吉でさえも切腹寸前まで追い込まれたことを思い出します。

投稿: munixyu | 2019年6月 5日 (水) 17:57

「詩仙堂」は亡母がこよなく愛したお寺でした・・・。

投稿: Tacchan | 2019年6月 6日 (木) 10:33

★maanbuさん こんばんは♪
訪れたのは午後3時頃だと思います。観光客はこの時期としては少なかったと思いますが、本堂の奥に並んで座っていました。サツキの見頃はもう少し先のようです。

投稿: りせ | 2019年6月 7日 (金) 00:40

★Taccha~n こんにちは♪
関東は梅雨入りしましたね。こっちは明日は晴れるといってるからもうちょっと先かな。
詩仙堂の坂道キツイわ。

投稿: りせ | 2019年6月 7日 (金) 11:51

★munixyuさん こんばんは♪
丈山の場合、家康に可愛がられていたからこそ、示しがつかなかったのでしょうね。それでも、本当に家康が嫌っていたら、浪人になってから様々な大名からお誘いはなかったと思います。

投稿: りせ | 2019年6月 8日 (土) 00:16

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