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2019年6月 6日 (木)

八大神社 2019初夏

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の詩仙堂を出て坂道の上の八代神社を訪れました。「八大神社」は鎌倉時代の永仁2年(1294)に創建され、一乗寺の産土神(うぶすながみ)、氏神として信仰されてきました。

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産土神と氏神は、それぞれ、その土地に生まれた者および現在その土地に住んでいる者を守護する神です。鳥居をくぐると、摂社の山ノ神社、牛宮社があります。

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古くから八大神社は「八大天王社」、「北天王社」、「北の祇園社」などと称されて、皇居守護神十二社中の一つにもなっていました。(坂道を登ったところに神社の建物が並んでいます。)

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かっての祭神は、「牛頭天王(ごずてんおう)」、妻神「婆梨采女(はりさいじょ/はりさいにょ)」、子神「八王子」でした。牛頭天王は疫病を起こす神を支配する神で、インドの祇園精舎の守護神です。(社務所・授与所)

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祇園精舎は、釈迦が説法を行い、初めて寺院(精舎)が建てられた場所で、仏教の聖地とされます。牛頭天王の姿は牛の頭に忿怒鬼神の相を表した三面の神体で、その信仰は仏教とともに、中国・韓国を経て日本に伝わりました。

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また、激しく荒々しい気性や家族関係?などが類似していたので、牛頭天王一家は、素戔嗚命、稲田姫命(くしなだひめのみこと)、八王子命(はちおうじのみこと)と同一視(神仏習合)されてきました。

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明治初年(1868)の神仏分離令によって、牛頭天王を祀ってきた天王社や祇園社は祭神を素戔嗚尊に改められました。外来の神、仏教の神、地元の神などの祭神が、古事記や日本書紀に現れる神に改められました。

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神仏分離令は廃されましたが、八大神社や粟田神社はかっての祭神・牛頭天王に言及している数少ない神社の一つです。また、八坂神社ではなく、その祭礼である祇園祭の鉾町の人々によって牛頭天王が伝えられています。

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祭神は上に述べた素戔嗚尊、稲田姫命、八王子命で、禊祓い、農耕・水、森林・山、縁結び、方除・厄除、学業・教育・和歌と様々な御神徳があると信じられています。

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八大神社は江戸時代の剣客・宮本武蔵(1582-1645)が、慶長9年(1604) 吉岡一門との「一乗寺下り松の戦」の前に立ち寄ったといわれています。当時の一乗寺下り松の一部が祠に納められています。

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武蔵は21歳頃のとき、蓮台野で道場主・吉岡清十郎、三十三間堂でその弟・伝七郎を倒し、一乗寺下り松で、吉岡一門の数十人を相手に戦うことになりました。(吉岡側の記録には異なる部分もありますが、戦いがあったのは事実のようです。)

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武蔵は、必勝祈願に拝殿の鈴を鳴らそうとして思いとどまり、頭をさげただけで立ち去りました。後年武蔵はそのときの心境を「神仏を尊んで神仏に恃(たの)まず」と述べたそうです。

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平成15年(2003)に八大神社創建710年、一乗寺下がり松の決闘から400年を迎えることから、記念事業としてブロンズ製の宮本武蔵像が建立されました。鎌倉仏師定朝の末裔、仏師・田中文彌氏と柴田篤男氏の制作です。

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田中氏は国宝などの海外流出を防ぐために多くの仏像を模造したことで知られ、柴田氏は亀山公園の角倉了以像の作者です。(本殿の真後ろに丸い石?があります。)

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境内には多くの摂社があります。本殿の右手に「皇大神宮社」、伊勢神宮の内宮と同様、天照大神を祀ります。天照大神は弟神の素戔嗚尊の乱暴に腹を立て天岩戸に隠れたとされます。

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武蔵像と向き合う場所に「七社」があります。右から、加茂大神社・柊大神社、赤山大神社・貴布禰大神社、春日大神社・新宮大神社、諏訪大神社・竈大神社、賢防大神社、八幡大神社、日吉大神社。

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七社の右に「鷺森台神社」と「大将軍社」があります。

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石段を下ります。社務所では、令和元年6月「彩り御朱印 夏」と題して、涼しげな水色の和紙に、七月の湯立神事、八月の鉄扇踊りの様子が描かれた季節限定の御朱印を授与しています。

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また、6月16日(日)午後1時過から境内で「野菜の即売会」が行われ、同時に農作物・農業を称える「勧農祭」の祭事があるそうです。奥に、御神木の樅(もみ、左)と杉(右)があります。

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上の写真の左奥に石段があり、その上の本殿を見下ろす位置に「常盤稲荷」があります。立派な構えで八大神社の摂社と思われますが、由緒は分かりません。

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東京の日本橋本町にある常盤稲荷神社は有名なので、豊川稲荷のように、地元の伏見ではなく他方から勧請したのかも知れません。

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この稲荷の横から通りに出られます。小説「宮本武蔵」を書いた吉川英治は随筆で、吉岡一門が陣取る一乗寺下り松を見下ろし、坂を駆け下りてその背後をつくにはこの場所しかないと述べています。

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昨日の記事の詩仙堂を建てた石川丈山は武蔵と同時代の人でしたが、接点は見当たりません。ただし、武蔵は吉岡一門との最初の決闘の後、鷹峯の本阿弥光悦を訪ねています。

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丈山は光悦とも親交があり、武蔵のことが話題に上ることがあったかも知れません。

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