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2019年6月 1日 (土)

六孫王神社 清和源氏発祥の宮

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

八条通と壬生通の交差点北西に六孫王(ろくそんのう)神社があります。先日の記事の石神神社・波切不動明王から北西に歩いて数分の場所です。

「六孫王神社」は清和源氏の祖と仰がれる六孫王源経基(みなもとのつねもと)を祀る神社です。(壬生通に面する東の鳥居から本殿に参道が続いています。)

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経基は清和天皇の第6皇子・貞純(さだずみ)親王の第1子として生まれましたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていました。(境内には桜を始め様々な草花が植えられ、いつも花を咲かせています。)

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15才で元服、源の姓を賜わり、先例に従って臣籍に加えられました。皇族にはもともと姓がなく、皇室から離れる際に初めて姓を賜わり、天皇の臣下となるという意味で、臣籍降下ともいわれます。

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ほぼ同時期に関東で平将門、瀬戸内海での藤原純友が起こした承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り現地に赴きました。凱旋した後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍に任じられました。

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六孫王は現在の社地に住居を構えて、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言したとされます。「鯉魚塚」、鯉は当社の神使です。

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六孫王の子・源満仲(みつなか)が平安時代中期の応和年間(961-963)遺骸を当地に埋葬、その前に社殿を築いたのが六孫王神社の始まりとされます。(参道の右に鳥居があります。)

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社殿は「六孫王神祠」「六の宮」などと呼ばれました。「睦弥稲荷神社」

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鎌倉時代の1222年、3代将軍・源実朝の妻・西八条禅尼(信子)は、境内北の西八条邸内に亡夫の菩提を弔うために大通寺を建立しました(後に南区に移転)。当社は寺の鎮守社となり、以後、源氏ゆかりの神社として武家の信仰を集めました。

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源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝・実朝なども六孫王の子孫で、清和源氏と呼ばれます。もう一つ鳥居があり、琵琶湖の竹生島より勧請した弁財天が祀られています。「誕生水弁財天」とも呼ばれ、商売繁盛、病平癒の信仰があります。

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6月13日に開帳されるそうです。 弁天堂内には「六孫王誕生水(満仲の誕生水)」、「児ノ水」があり、産湯に使用したといわれています。「京都七つ井」の一つの名水とされています。

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参道の周囲にあるのは西八条の池(龍神池)と呼ばれますが、この日は水がありませんでした。

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室町時代の1398年焼失しましたが、3代将軍・足利義満(1358-1408)により再建されました。さらに 応仁の乱(1467-1477)により焼失、以後、荒廃しました。

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江戸時代の元禄14年(1701)正一位の神階と権現号を授かり、翌年当社の北隣にあった大通寺の南谷照什(なんこくしょうじゅう)が、水戸光圀を動かして幕府に再建を請願しました。橋の上から本殿の前の「唐門」(市指定文化財)が見えます。

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元禄から宝永年間(1704-1711)にかけて清和源氏の末裔を自認する徳川将軍家の援助によって本殿などが再建されました。大通寺も三河源氏の血を引くとされる徳川家の庇護を受けて広大な境内を有していました。

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現在の社殿は宝永年間の再建で、松平紀伊守が与力奉行として造営に関わり、以後幕府の手厚い庇護を受けました。それに対し、社僧は年に3度(正月、5月、9月)、江戸に赴き祈祷御礼(おふだ)を献上したといわれます。

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明治初年(1868)の神仏分離令により当社は大通寺より分れ、その後の上知令により境内地の大部分は接収されました。大正元年(1912)には境内に国鉄線路が敷設されるため大通寺は南区西九条に移転、当社のみが残されました。

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昭和39年(1964)には新幹線の敷設にともなって、神社の境内はさらに縮小されました。上の写真は「祭器庫」、その上が新幹線の高架です。

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本殿に祭神・源経基(六孫王大神)、相殿に天照大神、源氏の氏神・八幡大神を祀ります。出世開運、無病息災、子孫繁栄、家運隆昌などの信仰があります。本殿背後に石積の源経基(六孫王大神)の神廟があるそうです。

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また、神使が鯉であることから恋に掛けて良縁祈願や恋愛成就のご利益があるとか。先ほど渡った橋も「恋(鯉)の架け橋」と呼ばれるそうです。唐門の横に可愛い神馬がいます。

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徳川家は当社の復興・修復のために度々寄進し、南谷上人の懇請に応じて諸建造物の造営に寄与したのは五代将軍綱吉でした。大名に対する経済統制の意味もあり、源氏の譜代大名に寄進を命じ、境内のあちこちに様々な形の石燈篭が見られます。

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清和源氏の末裔には足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・得川などがあります。徳川将軍家は、得川の末裔を名乗った家康が嘉字を用いて徳川と称したことに始まります。「社務所・授与所」

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ただし、現在では徳川家が得川の末裔であることが検証できないそうです。建物が宝永年間に完成し盛大に祭を行ったことから、10月(体育の日)の例祭は「宝永祭」とよばれます。こちらにも「祭器庫」。

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一昨年、六孫王が「武門のイメージが強いが、恋の歌に秀でたことも知ってほしい」と橋のたもとに歌碑が建てられました。(下の祠には大日如来など石仏が祀られています。)

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「拾遺和歌集」に収録された「哀れとも 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに」と「雲井なる 人をはるかに 思ふには わが心さへ 空にこそなれ」

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古社を巡る「京都十六社朱印めぐり」(1月1日-2月15日)では、すべての神社を参拝すると一年間のあらゆるご利益が得られるといい、専用の朱印帳に全てのご朱印を受けると干支置物が授けられるそうです。

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コメント

源というのは、要するに元皇族ということなのですね。
格式が高いのは、そういうことでしたか。

投稿: munixyu | 2019年6月 1日 (土) 15:13

★munixyuさん こんばんは♪
平家も桓武天皇の子孫が平の姓を賜り臣籍降下した桓武平氏が始まりです。「平」の姓は平安京が由来といわれます。そう考えると源平の戦いも不思議な因縁があります。

投稿: りせ | 2019年6月 3日 (月) 00:48

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