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2019年6月 3日 (月)

船岡山 歴史の跡を散策

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日建勲神社を訪れた後、船岡山の山頂を通り西の麓に下りました。途中に点在する様々な時代の痕跡(史跡)を見て歩きましたが、必ずしも時代順ではありません。

建勲神社の社務所の向かいの石段を下りると、山の中腹を回る道に出ます。石段の左上に船岡山の守護神の玄武大神を祀る「船岡山妙見社」がありますが、玉垣で囲まれて近づけないようになっています。

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船岡山の全域が昭和43年(1968)国の史跡に指定されました。また、昭和6年(1931)風致地区、平成7年(1995)京都府の自然200選にも指定され、地形や現状の変更が行われないように保護されています。

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船岡山はチャートと呼ばれる堆積岩の岩盤でできており、愛宕山塊と同様に丹波層群に属します。この地層は、古生代の石炭紀から中生代のジュラ紀にかけてアジア大陸東側の海底で形成された後隆起した地層群です。

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厚さ数センチの珪質層と数ミリの泥質層が交互に積み重なった層状をなしていて、建勲神社の旧本殿跡の「大平和敬神」の石標の後ろで、地層の傾斜や褶曲が見られます(上の写真)。

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山腹の道は西に向かってゆるい上り坂になっています。右は建勲神社の神門から続く玉垣で、東の山頂一帯を囲んでいます(立入できません)。向うに西の山頂が見えてきました。

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東西に長い山頂の東端に巨岩があり、神が降臨した「磐座(いわくら)」といわれています。ただし、磐座に特有の地上に置かれた岩ではなく岩頭が露出したもので、祭祀や伝承も伝わっていないので仮説の域を出ません。

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「三等三角点」 標高111.8mで、双ヶ岡(116m)と吉田山(123m)をあわせて京都三山ともいわれ、いずれも標高がほぼ同じです。後ろは「サイレン塔」で戦争中は空襲警報を、戦後は時刻を知らせたそうです。

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ここはほぼ東西(西北西から東南東)の方向に長さ400mの丘陵で、その姿が船に似ていることから、船岡山の名が付いたといわれています。現在は山頂を囲むように木が茂って、見晴らしがよい場所は限られています。

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南の方には京都タワーや、先日訪れた伏見桃山城の天守閣と大手門(いずれも模擬)が見えます。逆に、天守閣に上れば船岡山が眺められるはずです。

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平安時代にはここで数々の祭祀が催され、景勝地として遊宴の場ともなり、人々の生活に密着していました。清少納言は『枕草子』で「丘は船岡・・・」と讃えています。左大文字が間近に見えます。

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「旧猿舎」 戦後に京都市が猿小屋を設置して2匹の猿が飼われていました。ところが、子供たちが石を投げたりしていじめるので、昭和25年頃には岡崎の動物園に引き取られたそうです。

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船岡山は長坂街道(丹波街道)が都に入る要衝の地に位置していて、鎌倉時代以後に戦場になりました。室町時代の応仁の乱(1467-1477)では、西軍の大内政弘、山名教之(のりゆき)らがここに拠点を築きました。

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しかし、応仁2年(1468)に東軍の細川勝元によって三方から攻め落とされました。この日は、山頂のから西部の南斜面の方(左)に下りました。)

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船岡山は景勝の地の一方で、古来から都を代表する葬送地でもありました。吉田兼好も『徒然草』で、都の死者を「鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と述べているそうです。

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山頂で出会った近所の方によると、戦後になってもこの辺りから遺骨が出土したそうです。あちこちに石仏や石塔が点在しています。

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その中に、弘法大師爪彫りの「船岡不動」と呼ばれる磨崖仏があります。実際には定印を結び蓮華座に座る阿弥陀仏で、室町時代前後の作と考えられています。 写真では木の影が写って分かり難いのですが、肉眼ではかすかに判別できます。

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間違って不動明王と思われてきたようです。この磨崖仏の周囲が少し開けていて、向うに灯籠や小さな祠があります。ここにお参りする人がいたようです。ここから、山の北斜面の方に向かいました。

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戦国時代の永正8年(1511)、室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と、前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で「船岡山合戦」が起こりました。(途中で当時の戦の遺構が見られます。)

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幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦いでした。義澄が病死するも澄元方は細川政賢を主将として船岡山に陣取り、防戦を試みました。遺構は土塁や空堀、曲輪(くるわ)などで、曲輪は建勲神社の本殿の裏に見られるそうです。

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しかし、西国の国人領主の大半を動員した大内軍は強大で、援軍が京都に入れず、最後は政賢が戦死して澄元方は総崩れとなり、京都は再び義稙が支配することになりました。(船岡山公園の広場から比叡山から東山が見渡せます。)

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天文22年(1553)には三好長慶と対立した将軍足利義輝が船岡山に陣を構えました。広場からは、船形や妙法、大文字の送り火が見えます。小さな花壇に植物園の噴水の周囲で見たネギ坊主(アクリウム)が咲いていました。

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安土桃山時代になると、先日の記事のように豊臣秀吉が信長の菩提寺「天正寺」を計画しますが途中で頓挫しました。しかし、そのおかげで船岡山一帯が大徳寺領となり自然や生態系が保存されてきました。「運動広場」

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明治天皇の勅命によって船岡山の東部分に信長親子を祀る建勲神社が建てられ、秀吉が投げだした事業を明治天皇が完成させたともいえます。「野外演奏場」

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野外演奏場の裏にある「ラジオ塔」 昭和初期から全国に約400基設置され、ラジオ体操やスポーツ中継、戦況を伝える放送が行われました。戦後は数が減り、現存するのは全国で25基ほどだそうです(円山公園にもあります)。

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広場の横に「応仁永正戦跡の碑」があります。応仁永正戦とは、上で紹介した応仁の乱と船岡山合戦のことです。戦いの遺構は船岡山全域に点在するので麓に置かれているようです。

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コメント

船岡山は、すごい歴史の跡なんですね。
最後のネギ坊主を見て、ほッとしました。

投稿: たっちゃん | 2019年6月 3日 (月) 11:14

いつも思うのですが
京都タワーは、どこからでも見えるいい場所にありますよね。
少し風景を遠めに引くと、高確率で写真に入っているように思います。

投稿: munixyu | 2019年6月 3日 (月) 19:50

★たっちゃんさん こんばんは♪
山の北側の斜面には戦いの遺構がいくつもあるのですが、考古学に興味がない方にはつまらないと思い写真を載せていません。先日植物園で見るまで、ネギ坊主の本当の名前を知りませんでした。

投稿: りせ | 2019年6月 4日 (火) 23:43

★munixyuさん こんばんは♪
京都の市街地で一番高いビルは京都ホテルオークラの58m(京都駅ビルは約60m)で、京都タワーは131mあります。どちらも景観条例の制定以前に建てられたので、今後はこのような高い建造物は市街地では建たないはずです。南部の郊外に100mのビルが二つありますが、京都タワーの妨げにはなりません。

投稿: りせ | 2019年6月 4日 (火) 23:57

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