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2019年5月24日 (金)

桃山丘陵にある三つの陵墓

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事の伏見桃山城を後に、桃山丘陵にある桓武天皇、明治天皇、昭憲皇太后の陵墓を訪れました。かってのキャッスルランドへの車道を下ると、途中に「桓武天皇柏原稜」への参道があります。

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平安遷都(795年)で知られる桓武天皇は延暦25年(806)3月17日に亡くなりました。天皇は生前に宇多野に陵墓を望んでいましたが、地元の勢力が反対、周辺の山で不審火が相次ぎ、占いでは宇多野の山陵が賀茂神社に近いための祟りであるとされました。

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結局、山城国紀伊郡(伏見区)の柏原山陵に葬られました。広大なこの山稜は、平安時代から鎌倉時代前期にかけて歴代の朝廷の尊崇を集め、定期的に荷前使が派遣され、国家の重大事には告陵使が遣わされました。

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ところが、南北朝から室町時代の動乱の中で朝廷の祭りごとが途絶えると、桓武天皇陵の所在地が忘れ去られてしまいました。

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江戸時代後期に幕府により陵墓探索が行われ、伏見区深草の浄蓮華院境内の谷口古墳に決定したものの、他の古墳や古御香宮社を推す説、秀吉の伏見城造営で破壊されたとする説など、さまざまの異論がでました。

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幕末になって谷森善臣(平種松)の考証によって、この地にあったわずかな高まりが桓武天皇陵と認定され、これが明治政府に引き継がれて現在に至ります。見えませんが、林の中に円丘があります。

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もう一度、明治天皇稜への参道の杉並木に戻りました。

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途中に、伏見城石垣に使用されたと思われる石材が並んでいます。

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さらに参道を上ると、明治天皇稜の横に出ます。明治天皇は明治45年(1912)7月30日、東京の明治宮殿で崩御、同年(大正元年)9月13日に青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で大喪儀が行なわれ、翌9月14日にこの地に埋葬されました。 

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この陵墓の場所は豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地でした。そばには「宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所」があり、京都市南西部から旧山陽道、旧西海道地域の陵墓を管理しています。

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ここに墓所が営まれたのは明治天皇の遺言によるものといいます。明治天皇は孝明天皇の第2皇子として生まれ、母は権大納言・中山忠熊の娘・慶子(よしこ)で、5歳まで中山家で育てられました。

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その中山邸は現在の京都御苑の北東部にあります。明治政府の決定により東京に遷都されましたが、明治天皇は常に京都のことを気にかけていたといわれます。

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墳丘は天智天皇陵がモデルとされる上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60m、上段の円丘部の高さは約6.3m、表面にはさざれ石が葺かれています。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨が納められています。

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明治10年京都を訪れた明治天皇は、遷都後10年もたたずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた御所の様子を嘆いて『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じました。陵墓の前から市内南部の展望が開けています。

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目印になる建物が分かりませんが、名神高速道路が中央を横切り、右奥の丘の上に煙突があるのが京都市南部クリーンセンターだと思われます。

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明治天皇までの歴代天皇の陵墓はすべて近畿以西に造られていますが、大正天皇(多摩陵)と昭和天皇(武藏野陵)は東京都八王子市の武蔵陵墓地に葬られました。

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明治天皇稜に向かって右手に下りの坂道があります。

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途中に大きな熊手があり、砂利を掃くのだそうです。

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坂道を下った台地に、明治天皇皇后の昭憲皇太后の陵墓があります。昭憲皇后は大正3年( 1914)3月11日亡くなり、5月9日皇太后を追号され、5月24日大喪儀が行われ、翌々日この地に葬られました。

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昭憲皇太后は、五摂家の一つ、左大臣・一条忠香(ただか)の娘として京都に生まれ、生母は一条家医師・新畑大膳の娘・民子でした。「昭憲皇太后 伏見桃山東陵」

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陵墓は南面する上円下方墳で、明治天皇陵と同形です。少しだけ規模が小さいのですが、写真だけみると区別がつきません。昭憲皇太后は、書道や歌に秀で、和歌集『昭憲皇太后御集』があります。また、宮中での洋装化などに努め、

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維新志士や日清・日露戦争の犠牲者の慰問、東京女子師範学校や華族女学校(女子学習院)の創立などを行い、明治天皇の死後は青山御所に移りました。

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昭憲皇后が宮中で始めた養蚕は、令和の新皇后に受け継がれているそうです。正面の石段を下りました。

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丘陵に沿う坂道を下っていくと、明治天皇稜の石段下に出ます。

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この石段は手すりがなく230段あるそうです。スポーツ選手のトレーニング場所になっているようで、走って上り下りしている方をいつも見かけます。

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コメント

こんにちは
桓武天皇陵も明治天皇陵も、初めて拝見しました。
実に広大ですね。
桓武天皇陵の所在が、一時不明だつたというのには、驚きました。歴史の動乱期には天皇陵も、忘れられてしまうんですね!

投稿: たっちゃん | 2019年5月24日 (金) 12:47

最後の階段は凄いですね。
手すりのない階段は、今どきもう珍しいかもしれません。
230段、途中で力尽きる人もいるでしょうね。

投稿: munixyu | 2019年5月24日 (金) 18:00

★たっちゃんさん こんばんは♪
現在宮内庁に管理されている天皇陵のほとんどは、幕末あるいは明治初めに探索して確認されたものです。その作業を天皇陵の「治定」といい、時には考古学的に明らかに間違いとされるものもあるといわれます。そんな中で桓武天皇稜は昔からその所在が注目されていたので、様々な説が現れているようです。

投稿: りせ | 2019年5月27日 (月) 00:11

★munixyuさん こんばんは♪
230段は23段ずつの石段が10階に区切られ、それぞれの境は平らになっています。23段と10階は明治23年10月を表し、最後の23段と御陵の前にある7段を加えた30段は30日を表し、これは「教育勅語発布の日」だという方もいます。でも、なぜ教育勅語なのか分かりませんし、私はこじつけだと思っています。

投稿: りせ | 2019年5月27日 (月) 00:20

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